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【無料公開】『地獄くらやみ花もなき』第一怪 青坊主・3

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「夫のいない家に一人きり、お腹の中には赤ん坊。そんな状況で胸騒ぎがしたら、普通は虫の知らせと捉えるものじゃないでしょうか?」
「え、あの」
「結局、メールの差出人はどこの誰かも不明のまま。もしかすると、今この瞬間に沙月さんを待ち伏せしているかもしれない、そうは思わないんですか?」
「す、すみません、そろそろ時間が――」
 そそくさと席を立とうとする沙月さんの手を皓少年がつかんで止めた。
「差出人が誰か、本当は知ってるんじゃないですか?」
「え?」
「あなたは、初めから差出人に心当たりがあった。そして、その現況を知っているからこそ、危害は加えられないものと確信している、そんな風に見えるんです」
「失礼な! こんな脅迫まがいのメールを送ってくる人、心当たりありません!」
 かっとなった沙月さんが声を荒らげる。すると皓少年は、もがく蝶を逃がすようにそっとその手を放して、
「そもそも、脅迫メールとしては今一つ腑に落ちない文面ですね」
 そう呟いて、ことりと首を横に傾げた。
「この〈首を吊らないか?〉という言葉は、一見、死ね、殺すといった〈脅し文句〉と同じに感じられますが、厳密には〈誘い文句〉なんですよ。前者が一方的な意思表示や命令であるのに対し、後者は承諾か拒絶か相手に委ねているわけですから」
 確かに、言われてみるとその通りだ。
「受け取り方によっては〈一緒に首を吊らないか?〉というメッセージにも読み取れますね。たとえば差出人が男性の場合、男女の心中をうながすような――」
 途端、沙月さんが色を失くして立ち上がった。
「不愉快です、帰ります!」
 肩にかけたブランドバッグの底がティーカップに触れる。あ、と思った時には、テーブルに鮮やかな紅色の染みが広がっていた。はっと振り向いた沙月さんは一瞬怯んだ顔をしたものの、そのまま踵を返して退室してしまった。
「今のは、一体」
 何だったんだ、と青児は首をひねった。皓の発言もたいがい不躾だが、あの怒り方は過剰反応だろう。いや、それよりも――。
「青坊主っていうのは一体どんな妖怪なんです?」
 手元の本を開くより生き字引に問うのが早かろう。そう思って訊ねると、うーん、と皓は軽く首をひねって、
「そうですね。なかなか一概に言いにくい妖怪です。青い僧衣を着た大坊主のイメージは共通ですが、地域によって伝承がバラバラなんですよ」
「はあ、なるほど」
「ただ香川県の民話にこんなエピソードがありますね」
 
 ある正午のこと。子守りの少女が留守番をしていると、青坊主が現れて「首を吊らんか、首を吊らんか」と尋ねかけてくる。腹が立って無視していると、その手に捕まって気絶させられ、本当に首を吊らされてしまった。

「まるで通り魔じゃないですか」
 結局、赤ん坊の泣き声に気づいた近所の人に助けられたというオチつきだが、無理やり首を吊らされてしまうとは、なかなか恐ろしい妖怪だ。それにしても――。
「〈首を吊らんか〉って台詞、例のメールの文面とそっくりですね」
「ええ、返事をせずに無視したところも共通ですね」
 じゃあ、これから沙月さんは首を吊らされてしまうのか。ぶるりと背筋を震わせたところで、ふと青児は違和感を覚えた。
「けど、おかしくないですか? 話を聞いた限り、沙月さんはあくまで被害者だと思うんですけど」
 青児の左目はその人物の隠された罪を暴き立てる。それが皓の仮説だ。もしも青坊主という妖怪が、彼女が過去に犯した罪の性質を表しているのなら、彼女もまた罪人の一人だということになる。
「さあ、どうでしょうね。少なくとも彼女は何か隠し事をしていると思いますよ。そこに僕たちの知らない罪が隠れているのかもしれません」
 ふふ、と皓少年が笑った。人の悪い笑みだ。
「さて、青児さんにお願いがあります」
 言うが早いか、ティーワゴンを引いた紅子さんが現れ、でんとテーブルにノートパソコンが一台置かれた。当然のように最新モデルだ。
「沙月さんのブログを探し出して欲しいんです」
「はあ、けど」
 依頼人が帰ってしまったのだから、これ以上首を突っこむ権利はないのではないか。
「何でもきちんと蹴りをつけないと我慢ならないたちでして。もちろん給金はお支払いしますよ。時給二千円でどうですか?」
「ぜひやらせてください」
 善は急げとパソコンを立ち上げ、検索エンジンにキーワードを打ちこんだ。ほどなくして目当てのブログを発見する。
 更新は三日おき。〈こだわり全粒粉パンのさわやか野菜サンド〉や〈ハーブとトマトのフレッシュパスタ〉といったヘルシー志向の料理レシピの中に、ちらほらとエッセイ風の日記が挟みこまれている。
 都心の高級マンションでの夫婦二人暮らし。仲睦まじいツーショット写真に、北欧モダン家具のコレクション、長期ヨーロッパ旅行。世間も羨むセレブ生活だ。
 人気ブログというのは本当のようだ。〈幸せなご夫婦ですね〉や〈こんな生活、憧れます〉といった好意的なコメントが、記事の一つ一つに寄せられている。
 しかし、だ。
「いささか退屈ですね」
 皓少年はお気に召さなかったらしい。
「どの記事を読んでも、彼女独自の美学や価値観が感じられません。世間一般で〈幸せ〉とされるものをかき集めたように見受けられますね」
「はあ、確かにそんな気もしますが」
 しかし、昨今ではそれが普通ではないだろうか。
「さて、ではもう一つ青児さんにお願いがあります。沙月さんに何か変わった出来事がなかったか調べてください。おそらく四ヶ月ぐらい前だと思います」
「どうしてわかるんです?」
「嫌がらせメールが止んだのも、沙月さんの妊娠もその頃だからですよ」
 わかったようでわからない返事だった。無関係のようにも思えるが、下手の考え休むに似たりだ。何と言っても時給二千円である。
「あ、見つけました。これなんてどうです?」
 記事によると、四ヶ月前に同窓会があったようだ。正確には、本文ではなくコメント欄のメッセージだが。
〈明日の同窓会、会えるのを楽しみにしてます。みんなでカレッジソング歌おうね。久しぶりに飲むぞー!〉
 どうやら大学の同窓生による書きこみのようだ。名前欄には〈鳥辺野佐織(とりべのさおり)〉とある。本名だろうか。
「この名前で検索してみてください」
「わかりました。あ、出まし……え、怪談ブログ?」
 ブログ名は〈怪談編集者が行く!〉だった。
 オカルト月刊誌のライターとして、取材によって集めた体験談を本にする仕事をしているらしい。ブログ読者からも怪談を募集し、採用者には実際に会って取材することもあるようで、なかなか熱心な仕事ぶりだ。
「正直、ちょっと不気味なブログですね」
 まずデザインからして禍々しい。この辺りの地域も取材範囲に含まれているようで、なんと例の炊き出しのある公園が〈首吊りトイレ〉として紹介されていた。
 園内の公衆トイレでホームレスの老婆が首をくくって以来、同様の首吊り事件が絶えないそうだ。奇妙なことにいずれのケースでも遺書は見つからず、、まるで老婆の亡霊に取り憑かれ、我知らず首を吊ってしまったような状況らしい。
(怖っ!)
 ぶるっと背筋を震わせた青児がそっとページを閉じようとした、その時だ。
「おや、ちょっと待ってください」
 皓から制止の声がかかった。
 意外なほど真剣なその眼差しは、末端のブログ記事に注がれている。
「……死を招ぶ探偵?」
 怪談というよりは、一時期SNSで流行った都市伝説をまとめたもののようだ。
 何でも、都内某所に凄腕の私立探偵がいて、警視庁からの要請で殺人現場に赴いて事件を解決することもあるそうだ。
 百発百中。快刀乱麻。まさに名探偵と呼ぶに相応しい存在だ。
 しかし事件解決後、なぜか必ず死人が出ると言う。ほとんどの場合、犯人と名指しされた悪人ばかりなのだそうだが。
(あれ? 変だな)
 元より信憑性の低いネット情報の中でも、あからさまに馬鹿げた与太話のはずだ。けれど、なぜか冷たい気配がぞわっと背筋を這うのを感じて、青児は訝しく首をひねった。
 と、不意に皓が口を開いて、
「どうも嫌な感じがしますね」
「え、皓さんもですか? なんか妙に不気味ですよね」
「いえ、ちょっと厄介な知り合いを思い出したもので」
「……まさかこの探偵本人じゃないですよね?」
「ふふふ、さあどうでしょう。何にせよ、お近づきになりたくない相手ではありますね」
 くわばらくわばら、と心の中で唱えて、今度こそ青児はページを閉じた。詳しく訊いてみたい気持ちはあるが、触らぬ神に祟りなしだ。
 さて、何はともあれ、これでミッション達成である。
「ご苦労様。よく頑張りましたね。では、紅子さんにお願いしてアポイントをとってもらいましょうか」
 なら初めから紅子さんにお願いすればよかったのでは――。
 そうは思うものの、給金の話を反古にされても藪蛇なので、ここは沈黙を尊ぶことにした。雉も鳴かずば撃たれまい。
「さて、そろそろ夕飯にしましょうか。牛はお好きですか?」
「大好きです! 肉になれば!」
「では、すき焼きにしましょうか」
「牛も本望ですね!」
 控えめに言って牛すきは至福の味だった。あれほど美味しく調理してもらえるのなら、来世で牛に生まれ変わっても悔いはないだろう。
 晩餐の後、青児には客間の一室が与えられ、そこで寝泊まりすることになった。行く当てのない現状では、正直ありがたい限りである。
 どうやらこの屋敷は、玄関ホールを中心に、左右で和風と洋風に分かれているらしい。青児にあてがわれたのは二階右端の洋室で、逆に一階左端の風呂場は純和風だった。旅館で見かけるような檜風呂に浸かると、あまりの心地よさに潰れた蛙のような声が出る。垢と一緒に魂まで流れ出しそうだ。
 やがて風呂から上がると、当然のように脱いだ服が回収されて、新しい着替えが用意されていた。
 気分一新。なので当然、翌朝の目覚めも最高である。
「おはようございます、青児さん。今日も味わい深い寝癖ですね」
「……癖毛なんです」
 昨日と同じ、書斎のような一室で朝食をとった。テーブルの上には、オムレツやパンケーキといった洋風の皿が並べられている。ほかほかと湯気の立つパンケーキをホクホク気分で頬張っていると、
「住み心地はいかがですか? 不自由があれば、遠慮なく言ってくださいね」
 もしも青児が三歳児であれば、すかさず「ここんちの子にして!」と駄々をこねるところだろう。しかし残念ながら二十二歳児なので「パンケーキのおかわりありますか?」と訊ねるにとどめた。
 と、食事が一段落したところで、
「ところで青児さん、沙月さんの件なんですが」
 どうやら例の鳥辺野佐織なる人物とアポイントがとれたらしい。早速、駅前のカフェで待ち合わせだと言うのだが――。
「できれば青児さんにも同席して欲しいと思っています」
「え、具体的に、俺は何をすればいいんですか?」
「そうですね。わかったような顔をして、横でふんふん頷いていてもらえますか?」
 よし、決めた。潔く赤ベコに徹することにしよう。
 そして三時間後。普段は運転手役だという紅子さんは今日に限って別行動だそうで、タクシーを呼んで待ち合わせ場所のカフェに着いた。
 女性客が客層の中心らしく、若い男の二人連れ――しかも和装の美少年である皓は否応なしに目立つのか、四方からちらちらと視線を感じる。
「鳥辺野さんという方と待ち合わせで」
「ああ、奥の席でお待ちですよ。ご案内いたします」
 案内された四人掛けのテーブルには、すでに紅茶のカップがあった。そして待ち合わせ相手らしき人物が、すっと立ち上がって頭を下げる。
「初めまして。鳥辺野佐織です。西條皓さん、ですよね?」
 長めの髪を首の後ろで一束ねにしたスーツ姿の女性だった。肩書きから想像されるおどろおどろしさは微塵もなく、生真面目なOLといった印象である。
 営業スマイルで名刺が差し出され、やがて簡単な自己紹介が終わると、
「昨日はメールをありがとうござました。とても興味深い体験談をご投稿いただき、今日はぜひそのお話をと」
「すみません、実は謝らなければならないことがあるんです」
 ぺこりと頭を下げて、皓は率直にそう切り出した。投稿作はデタラメの作り話で、本当は佐織さんから話を聞くために今この場に呼び出したのだと。
「はあ、なるほど」
 戸惑い顔で座り直した佐織さんは、しばし考えこむように沈黙して、
「道理で読者投稿にしてはできがよすぎると思ったんです。あれは私を呼び出すための餌だったわけですか」
「本当に申し訳ありません。乙瀬沙月さんについて、どうしてもお聞きしたいことがあったもので」
 不意に佐織さんの顔から表情が消えた。
「……沙月が、どうかしたんですか?」
「嫌がらせメールの件はご存知ですか?」
 出し抜けに訊ねると、佐織さんは意表を突かれたように瞬きをした。
「え? ええ、知ってます。もしかしてそのために調査してるんですか? けれど沙月自身は、あまり気にしてなかったと思いますけど」
「おや、そうなんですか?」
「結局、自慢みたいなものなんですよ。私のブログはそんなメールが送られてくるほど流行ってるんだぞって。ほら、いるじゃないですか。ストーカー相談をしながら、実はモテ自慢したいだけって子とか」
「なかなか手厳しいですねえ」
 なんとなくわかる気がした。思えば、ブログに書かれたエピソードの数々も〈幸せアピール〉と言ってしまえばそれまでかもしれない。
「要するに探偵ってことですか? 雇い主は沙月本人?」
「いいえ、違いますよ」
「別の誰かってことですね。つまり旦那さん?」
「ご想像にお任せします」
「ふうん? ずいぶん勿体ぶるんですね」
 皮肉げに片眉を上げて、佐織さんは鼻白んだ顔をした。
 しかし、あからさまに拒絶の態度をとれないのは、やんごとなき御曹司然とした皓の扱いを決めかねているからだろう。逆にティッシュペーパー一枚よりも軽んじられるのが青児の常だ。
「ところで、佐織さんは嫌がらせメールの文面をご存知ですか?」
「いえ、全然。なかなか沙月が話したがらなくて」
 そこで皓が詳しく説明すると、
「……鏡文字?」
 鸚鵡返しに呟いた彼女は、はっと何かに思い当たった顔をした。そして、しばし逡巡するような間を置くと、
「もしかすると淳矢(じゅんや)かもしれません」
 どうやら犯人の心当たりがあるようだ。
「沙月の元婚約者です。佐久真(さくま)淳矢。私を含めてゼミの同期でした」
「どうして彼だと?」
「鏡文字です。淳矢は鏡文字を書くのが得意で、よくゼミの飲み会で見せてくれました。当然、沙月も思い当たったはずなんですが――」
「あえて気づかないふりをした、と。なるほど、署名のようなものだったんですね」
 警察の手に渡る可能性がある以上、署名入りにするわけにもいかない。だからこそ、あえて鏡文字にすることで差出人を仄めかしていたのだろう。
「差し支えなければ、詳しくお話をうかがっても?」
「いいですよ。他の誰に聞いたって、だいたい同じだと思いますから」
 存外さばけた口調で言って、佐織さんは肩をすくめた。革製のトートバッグから取り出したスマホをテーブルの上に差し出して、
「ゼミ合宿の写真です。これは長野のキャンプ場に行った時の」
 リア充かくあるべし、というお手本のような一枚だった。逆立ちしたって青児はまざれまい。中央で沙月さんの肩に腕を回した男性が淳矢青年だろう。育ちの良さそうなイケメンだが、どことなく淋しげな影があるのが印象的だ。
「なかなかの美男子ですね」
「正直、こっそり狙ってる子も多かったんです。まあ、淳矢は高校時代から沙月一筋だったんですけど」
「おや、皆さんその頃からのお付き合いなんですか?」
「ええ、寮つきの進学校でした。沙月も淳矢も、ちょっと家庭に難があって、それで惹かれ合ったんじゃないかと思います」
 お似合いの二人だったのだろう。寄り添いあう姿は、まるで幸せの象徴にも見える。となると俄然気になるのは――。
「破局の原因は何だったんでしょうか?」
「それが、言いにくい話なんですけど」
 言葉のわりには嬉々とした様子で、佐織さんはテーブルに身を乗り出した。
「実は、淳矢のDVが原因だったんです」
「おや、意外ですね」
「暴力男って感じじゃないですよね? けれど大学四年生になって急に」
「何かきっかけがあったんですか?」
「直接的な原因は、進路の悩みだったと思います。五月頃には、淳矢も大手企業に内定が決まってたんです。けれど、急に院に進学したいって言い出して。表向きは沙月も賛成してました。けれど淳矢の方が、院試へのプレッシャーから沙月に八つ当たりするようになってしまって――」
 まったく酷い話だ。
「ただ淳矢自身は最後まで否定してました。子供の頃、理不尽な躾で親に殴られたから、同じことは絶対にしないって。実際、親への反発から全寮制に進んだわけですし。それで周りも、最初は半信半疑だったんです」
 おそらく佐織さん自身も、彼を信じていた一人だったのだろう。古傷の痛みをこらえるような表情をしている。
「状況が変わったのは、頬を腫らした沙月が私のアパートに駆けこんでからでした。ソファで眠っていた淳矢を起こそうとしたら、突然〈うるさい!〉って殴られたって」
「それは酷いですね」
「ええ、左の頬が腫れて傷が残ってました。その時の血痕が、淳矢が右手にはめていたシルバーリングに残ってたんです。それでDVの話が一気に信憑性を帯びて」
「淳矢さん自身は、なんと?」
「覚えてないって言ってました。勉強疲れのせいでうたた寝してしまったって」
 そこで青児はついつい口を挟んでしまった。
「それって、本当に寝ぼけてたんじゃ?」
「けど、普段から暴力をふるっている人でないと、とっさに殴るなんてことできませんよね?」
 確かにそんな気もする。だからこそ、周りも彼に不信感を抱くようになったのだろう。
「沙月さんにも、不幸な時期があったんですね」
 呟くと、妙にしみじみした声になった。人に歴史あり。どんなに順風満帆な人生に見えても裏には苦労がひそんでいるわけだ。しかし――。
「そうでもないかもしれませんよ」
「え?」
 皮肉に唇を吊り上げた佐織さんが、再びスマホを差し出した。

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