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#16 若き宮沢の悩みを深堀りして答えにならない答えをしてみた

「悩む・・よく考えると病む。宮沢君は疲れる」という。「疲れる」・・なるほど。どうしようかと選択をするから。あれを選ぶとこれは選べないという、経済学の「トレードオフ、両立できない。」諺「2つ良いことさてないものよ」。

結論からいうと、ひょっとして現代の若者言葉では、悩むという語法は、本来のその意味の持つ故郷からは遠い世界になってしまったのではないか?

彼ら若者が悩むのは、なにかを選択するときであり、それはどの便益を優先するか、その便益は購入財で貨幣換算可能な数値で、損得勘定に限定されている。悩むのは商品選択の場面に限定され、しかもそれは比較的低コストで手に入る。つまり、悩むとは選択である。

悩んだときに、なにかから逃走することと、選択することとは全く異なる。逃走は危機からの回避であり、選択は提示されたものに対す結果の享受である。

フロム「自由からの逃走」(1941や佐藤学「学びから逃走する子どもたち」(2000)で、フロムの結果はファシズムの選択享受へ、佐藤の結果は今日の教育状況の選択享受につながる。

今日、我々の選択は逃走からはじまっていない。じつは逃走すらしていない。というのは、なにから逃走すべきがその対象自体があいまいで空虚になっているから。グーグルやAmazonやSNSのような、巨大で流動的で人々を飲み込み私自身も彼らの選択対象の一部になるという相互関係にあるような雲をつかむ話。それが対象化されるには、そこからの離脱しかない。その時はじめて悩む。悩むというのは前代未聞(少なくともその人にとり)だからではないか。

つまり情報が多く流動性が高い前代未聞の高度情報社会では、悩むとは選択を求められ強制される状況である。一見、自主的に選択するという行為には外圧による操作性が巧妙に隠されている。宮沢君が疲れるのは、選択するときの情報の多さと便益の多さによる自主的であるようで自主的でない選択の強制を何者かが巧妙にしくんでいる疑惑を感じているからではないか。だから選択自体が悩みなのである。ここにおいて悩みは故郷を喪失している。

グローバリズムは自由を拡大することで裁量のメニューをあらかじめ用意し、客の好みにあわせてオーダーできるシステムを構築するアルゴリズムを前提にしている。いいかえると、私には裁量がない。自由がない。自己決定権がない。

悩みを生み出す能力を学校は準備するどころかはく奪することを求められている。大学では自由度が増し裁量がある。悩むとは、自由になることから逃走することでも、メニューを選択することでもない。自ら由とする裁量の枠を生みだし課題をとりこむ能力。それは人間の深い闇とともにある故郷への回帰の道程を探す取り組みになる。

そのため、きわめて個人的で守秘義務を伴う行為である。だから悩みの相談は軽くはなく重い。それに耐えることでしか悩みは生まれない。そして常に他に操作され選択を繰り返し自分を見失う危険をもつ。


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