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#79 【放送後記】第8回ふりかけラジオ「この国は好きだけど日本は嫌い」「授業は好きだけど学校は嫌い」

1月27日に第8回ふりかけラジオを放送しました。
今回の放送はこちらからお聴きいただけます。


「この国は好きだけど日本は嫌い」

はカナルの言説。もとは「授業は好きだけど学校は嫌い」と気づいた教師経験の高松の言説かららしいのですが。この言い方は「○○だけど○○」に似たようなカテゴリーを入れると成立するのです。ごはんは好きだけど給食は嫌い、とか。

今回のおはなしは、このカナルの言説の深堀りです。国と日本。故郷と国家。「国は破れて山河あり」の国は日本とか国家。回帰できる自然の山河とか日常の中にある人々の生活の場という意味でカナル君は国といってます。これって「常民」とかいいましたよね、たしか民俗学でそこに住む人々。まだ形式とかシステムとかが近代化以前の状態というか、これが国・国土・ふるさと。人々の日常、日常生活、日常世界、ハーバーマスのいう生活世界です。そういう土の匂いの部分が、どこか必要な時代。これだけ科学が発展すると全部わかったようなきになってしまう。

日本というのは、近代国家の行政区であり主権国家。

国民・領土・主権。政治的に無理やり結合するシステム。それに一方的に国民という人々が組み込まれて従うことで生きることになる。あの太平洋戦争とはそういういみで は悲惨だった。多数の人の決定は結局、いつのまにか一部のエリートが支配するシステムであるかもしれない。いわゆるポピュリズムという民主主義の亜種になる。ここには土ではなくコンクリートがある。近代とかなにか?という問いにもつながる。

そういう行政区の日本が嫌いっていうのは、みんなうすうすあるんですよね多分。この言説の文構造見ればわかるんだけど、○○は好きだけど、○○は嫌いって、○○は近い分類で入れてみてほしい。すると、あら不思議、なんとなくわかったつもりが案外と難題だったりする。実際、いくら国民として生きても最期は一人のにんげんとして家族や身内の親しい人に見守られる。それは国家が介入d系ない情緒的な部分。

果物は好きだけどりんごは嫌い。

リンゴは好きだけどリンゴジュースは嫌い。
田舎は好きだけど行事は嫌い。
国民にはなりたくないけど家族は好き。
制度が先か、それとも近親の親しい人が先か。
真面目にこういうことを考えると、本当のところどっかうまくかみ合ってないと感じる。すると自分のこだわりがだんだんあるいことに気づき、明らかにしていく。それでなんとなくその後の職業選択にそこから繋がるように思う。あとで、ハッっと気づくようなものですが。システムか非システムか。フォーマルかインフォーマルか。
結論から言うと選択しようがない。その間隙を自分で調整するしかない。

スメタナの「わが祖国」

ドボルザークの「第9番 新世界交響曲」とか、自分の生まれ育った場の空気感。魯迅の「故郷」。そういう心情的な部分アメリカの近代生活に疲れたドボルザークにはあっただろうし、魯迅にしても中国の近代化の中で取り残されたひとびとがいたこちおに苦渋の選択があった気がする。
そういう感情に浸れるのがカナルの言う好きな「国」かもしれない。すでに現実い喪失されていたとしても、心の中に生きているような風景。だから、でしょうか?個人的に、わりと最近畑で野菜作ることが微妙に快適であったりする。その快適さとは畏敬の念のようでもあり、無意識にこれまでの家族に連なる人への、仕事してきた祖先や父母への慮り。その、一方で仕事している現実の職場としての学校という組織があり、また畑に立って感じる気持ちがあり、そのギャップがある。

その調整はできないが、感じる、そのことが、この国は好きという気持ちの中身。国が好きというのは、そういう歯がゆくて何とも言えない気持ちをいうのではないか。カナル君はどうなんだろう。


「ふりかけラジオ」は隔週(毎月第2・4)土曜日の21時30分から、FM805たんばに乗せてお届けしています。
次回は、2024年2月10日の21時30分からの放送です。
FM805たんばの受信地域外の方も、こちらからインターネットサイマルラジオでお聴きいただけます。
それでは、また次回の放送でお会いしましょう。おやすみなさい。

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