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プロローグ

本日5月17日 私はめでたく83歳。
(83歳 何がめでたいww)
好奇心だけは若い方に負けない。
まだまだイマドキを学びたい。
そう思いながらネットを学んで、
ネットで仕事をしているおばあさんです。
自宅でネットで働いています。
そして、なんと今でも現役会社員!
なぜ83歳にもなってそんなことができているのか?
その方法とは?
私のこれまでの長い人生とともに、
みなさんにお届けできたらと思っております。


◉私とは

私、みちこは1941年5月
満洲国まんしゅうこく奉天省ほうてんしょう
奉天市ほうてんし(現在の中国東北部)で生まれました。
なぜ、満州だったのか?
まずはそのいきさつからお話ししたいと思います。

父方の祖父は九州の北九州市小倉で
炭鉱を経営していました。
その昔、私はお嬢だったのです。 
ちょっとしたお嬢様って感じ?
まあ炭鉱といっても小さなところだったのです。
炭坑節で有名な三池炭鉱とは雲泥の差です。

私の父は長男でしたのでゆくゆくは祖父の跡を継ぐ
ということで商売の勉強にと
いわゆる奉公に出されていました。
その奉公先のひとつが満洲国奉天省奉天市だったのです。

そこは満州で一番の都会
といわれるところだったのです。
そこで会社勤めを始めた父。
そんな父と、平家の落人おちうどの家系である
母との間に生まれたのです。
まっ、あくまでも母いわくでww
実際のところはわかりません。

母は熊本の山の中でありながら、
熊本で一番裕福といわれた地域で生まれ育ちました。
この時代なのに京都の女子大を卒業しております。
プチ才女の母。

残念ながら母の実家の栄華も長くは続かず
家業の取引先銀行が破綻したことによりどん底へ。
そう私の家系はプチ華麗なる一族から、
地べたを這いつくばるような人生へと
転げ落ちていったのでした。
そんなこんなで一家は伯父を頼り満州へ
移り住むことになったのでした。
そこで、両親が出会って私が生まれたのです。

みちこ誕生
兄と

◉太平洋戦争勃発

私が生まれた奇しくもその年の12月に
太平洋戦争が勃発してしまったのです。
まもなく父は徴兵され戦地へ赴くことに。
残された家族はハルピンにある
母方の祖父母の家に
身を寄せていたのでした。

私の生まれて初めての記憶、
おそらく2、3歳頃の
ことだったと思いますが・・・
ピカ!
バーン!
ドッカーン!
ガラガラ!
壮絶な衝撃音が今でも
私は忘れることができません。
衝撃音の後、私は窓から恐る恐る
外を覗いてみました。
周りは真っ赤な炎で
覆われていたのです。
爆風で建物は吹っ飛び、
私の知っている風景とは
全く別のものに
変わっていたのです。
その風景は私の心に
闇を落としたのでした。
思い出すと身震いしてしまう、
本当に嫌な記憶なのです。

終戦のハルピンでは当時の憲兵さんが
門番さんを勤め、
その門の内側で親族が身を寄せ合って
過ごしました。
ご近所には中国人、ロシア人、朝鮮人。
そこにはグローバルなコミュニティが
存在していました。
朝食用にハムやパンを買い出しに行ったり、
ハルピンでの生活はそんなに殺伐とした感じ
ではなかったと記憶しています。

◉日本への引き揚げ

そこからの日本への引き揚げが
私には壮絶な体験、記憶になったのです。
それは私が5歳の時でした。

周りの大人たちの表情に
子供心に大変なことだと感じていました。
本能でしょうか絶対はぐれてはいけないと、
必死で母の後を付いて行きました。
後で知ったのですが、
日本への引き揚げの過程には
虐殺
強奪
レイプetc.・・・
ありとあらゆる犯罪で多くの日本人が
その時その場所で命を落としていったのです。

その修羅場の中をかいくぐり
私たち一族は運よく祖国日本を、
ふるさと九州を目指すことができたのです。
ハルピンから大連だいれんまで
貨物車に乗せられた私たち。
上を見上げるとそこに屋根はなかったのです。
そう雨ざらしの中、貨物車で大連まで
私たちの死の行進は続くのです。
その間には荒野を歩いたり、
さまよったり。
いったいどこまで歩けばいいのか、
いったいいつ着くのだろうと
底知れぬ不安に心を
押しつぶされそうになりながら。

ようやく大連に到着した
私たち一族は
やっと安堵したのです。
「助かった」
そこまでどれほどの日本人たちが
亡くなったのか。
計り知れない数の同胞たちが
そこで命を落としていった中
私たちは命からがら大連の町に
たどり着いたのでした。

まわりの大人たちの顔から
恐怖の表情が少し和らぎました。
「あれに乗るのよ」
母は港を指さしながら
私に教えてくれました。
そこにあったのは日本への
引き揚げ船だったのです。
「やっと帰れる」
「あの船で帰れるんだ」
幼心に思ったのを覚えています。
しかし、船に乗っても私たちの試練は
まだ続いていたのです。

◉引き揚げ船

ぎゅうぎゅう詰めの船の中。
甲板から船底まで
そこは人で溢れていたのです。
そこは快適な船の旅では
なかったのです。
衛生環境も食料事情も悪い中、
途中で亡くなる人も
かなりいらしたのです。

こんな光景も日常茶飯事でした。
「ドッパ~ン!」 
ふと見るとひつぎ
海へ投げ込まれていたのです。
その周りを船は一周したのでした。
そしてその場を離れ
船は進路を日本へ向けたのでした。

その光景は私の目に
しっかり焼き付いています。
80年がとうとする今でも。
それがその時にできる
最大のお弔いとむらだった
ということを理解できたのは
ずいぶん後のことでした。
このように子供の頃には訳が分からず
見ていた光景。
年を重ね、折に触れ思い出す時に
とても複雑な感情としてよみがえってきます。

ふと船の後ろを見ると
ボラの群れがず~っと付いてくる。
なぜだかわかりますか?
船から流される人の排泄物を
ボラが餌にしているからだと
教わりました。
空腹に耐えていた私は
あれを釣って、晩御飯にしたら
おいしいのにって考えていたのでした。
悲惨な状況の中なのに、幼子が思いつく名案は
“とほほ”の事実だったのです。

「日本だ!」
と大人たちが指さす方向に
島影を見つけました。
「あれが日本なんだ。」
「帰れるんだ」
と安堵の気持ちでいっぱいになりました。
上陸までに沖で1日停泊しました。
船の中ではみんな喜びでいっぱいでした。
余興も始まりました。
私も大人たちの喜ぶ姿につられるように、
訳も分からず踊りを踊ったことを
かすかな記憶の中で覚えています。
そんな船旅も無事終わりを迎え
母、兄、私の3人は
福岡の博多港にたどり着いたのでした。

博多港(写真提供:福岡市)
博多港引揚記念碑(写真提供:福岡市)

しかしそこには父はいませんでした。
父はそのままシベリアに抑留され
私たちとの再会は数年後となるのでした。

◉祖父の死と父の帰還

父方の九州に住む祖父のところへ
行った私たち。
贅沢はできないけども
不自由な思いもすることなく
過ごさせてもらっていました。
そんな折、祖父が急病で
亡くなってしまったのです。
あれから2年、
私が7歳の頃だったのです。

祖父が亡くなってからは
大変な人生が待っていたのです。
事業をやっていた祖父。
それなりに裕福だと思っていた私たち。
蓋を開けてみたらその中は
大変なことになっていたのでした。
その事業の実態は不正の嵐だったのです。
そのころ祖父は別事業に邁進まいしんしていていました。
仕事を任せていた人たちによって
祖父の会社はむしばまれていたのでした。
人に任せるということは
今も昔も難しいことだったと
感じています。
借金の返済で祖父が折角作った財産は
ほとんどが人手に渡ってしまったのです。
私たち一族は父もいない中、
どん底に向かっていくのを感じていました。
しかしそれでもありがたいことに、
田舎のほうに小さい家と少しの田畑が
残ったのです。
何とか衣食住には苦労せずに
幼少期は育った私。
日本でそんな騒動が起こっている頃、
父はまだシベリアの捕虜収容所に
いたのでした。

それから2年後、
父がやっと帰ってきてくれたのです。
舞鶴に着いたと父から連絡があって
母が喜び勇んで迎えに行ったのを
覚えています。
「よく帰れた」
と家族一同びっくりするやら
うれしいやらでした。
その時の母や、祖母の笑顔は
私の記憶に残っています。

日本に帰ってきた父は
しばらく荒れていたと聞いていました。
なぜならば父は祖父の事業を
継ぐつもりで商売の勉強をしている最中でした。
やっとの思いで命からがら日本到着したとき、
その事業はなかったのです。
それを考えると父が荒れていたのは
当然だったかもしれません。

しかしながらバイタリティのあった父。
ふと気づけば元気いっぱい
仕事に邁進している様子を
眺めている私がいました。
そう私の父はそこでもめげずに自分で
会社を起して
再度立ち上がっていたのでした。

しかしながら中々上手くはいかなかった父。
手を変え品を変え
色々葛藤していた父。
周りの人は折に触れ
事業家で資産家だった祖父のことを
話題にしていました。
その時の父の表情は
なんともいえなかったことを
私は覚えています。
父は祖父に対して
相当大きなコンプレックスを
持っていたのではないかと
今だから分かる私がいます。

➤次のお話しはこちら

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☆〈第一話〉 ◉子供時代 ◉高校時代

☆〈第二話〉 ◉大学受験 ◉初めての挫折

☆〈第三話〉 夫との出会いと結婚 
◉夫との出会いエピソード ◉結婚生活

☆〈第四話〉 幸せな家庭が一転 
◉夫の独立とバブルの崩壊 ◉阪神淡路大震災

☆〈第五話〉 副業に挫折で83歳の私の稼ぎ方とは 
◉ネットワークビジネスに挫折した私 
◉ネットワークビジネスの問題点

☆〈追伸〉

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