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ヴィーガンと動物愛護は似て非なり!?

ここ数日、伴侶がネットで聴く「ヴィーガン話」に耳を傾けています。

そこで繰り広げられているのは、牛や豚、鶏を食べない人々、乳製品や卵、魚にまで及ぶいわゆるヴィーガンと肩書きを持っている人々やそれを取り巻く人々の話すコミュニティ話、自分の自慢はするけど他人の話を聴かない、いわゆる何にための討論なの?前に進む話は?って感じるものばかりでした。もちろん伴侶も「ダメだこりゃ」と呆れるような人々、そして内容だったようです。一緒に聴いていた私の印象に残ったものは、スピーカーそれぞれのマウントの取り合いと、異質の冷酷殺人者のような物言いの牛飼い、自分のところの牛を一緒に働くという感覚を持ち、手塩に掛けて育てながらも平気で殺す殺し屋。殺しながらも「死ぬ」というまるで自然死のような感覚の牛舎の方の異質な感覚だけでした。

「やっぱうちの犬(こ)はかわいいわぁ〜!さぁ、今晩のおかずは豚と牛の合い挽きハンバーグ!」が普通なのでしょう。

ちなみに伴侶は動物愛護の心が中心にあり、自らも1年ヴィーガンを実行したりデモに参加したりといろいろ経験してきました。その影響もあり、現在では最愛のひとに合わせるような食生活を行なっている私ではありますが、もともとは小麦パスタ中心の食生活、牛丼はネギ大盛りの方が好き、お弁当のとんかつは割高に感じるし、チキンカツにするくらいなら白身魚のり弁というそもそも派でした。ステーキ系の肉ダイレクトは月一あるかないかくらいしか食べていないので菜食も苦にもならずむしろ喜んでのそれとなり、一緒に暮らすようになり、すべての料理を任せてもらえるようになって逆に私自らが望むような食生活になりました。

何事も制約を持たせると発想の自由度は広がり、自分の中でも変化は常に起こり、そこに新しい発想が現れます。ただ単に生活から動物系の物を除くだけのこと。それだけで発見が楽しくなりました。しかも伴侶は小麦アレルギーで添加物にも明るいために制約の中にも制約がある。『カレーを作るには野菜を炒めて水を入れ、煮込んで固形ルー』というつまらない固定された作り方ではなく、痺れるくらいに無限に広がるグルテンフリーで添加物なしの作り方。外食に頼り、スーパーに行かないとわからないことも制約の中で調べ学び、商品裏書きの成分表示で学べることも多々あることに気がつけました。

かたや動物愛護「優しい人に拾ってもらってね!は虐待です!!」という広告機構のCFではないですが、「動物愛護を訴える肉食家」は普通に見受けられるのが一般的です。猫を飼っていながらもマクドナルドを食べるひと(苦)。焼肉屋の亭主に飼われる犬、どれもこれもが一般的には愛玩動物と食事の動物は次元や住む世界が違うようです。身近で思い出されたのが、うさぎを飼っていた時にフランス人の友人に言われた「何歳なんだ?いつ食べるんだ?」という話。犬や猫以外では食べることなりにつながって来てしまうのも他の人にはありなのかも知れません。

しばらく前までは愛情表現の最終段階は食べること(食べられること)と思っていました。食されてその愛する人の身体を細胞として形成する喜び。取り込まれてその愛する人のDNAを成して同化すること。ただそこには取り込まれる側の死が伴うという問題がそれ以上の思考的発想の進展を妨げてしまっていました。そして出逢った最愛の伴侶、曰く「肉は百害あって一理なし」。自分(人間)よりも体温の高い動物を食すことにより体内に取り込まれる固まる脂、汚れる血液。自分でも調べれば調べるほど納得な菜食に出来ている人類。そして肉業者による癒着と政治家。悪いところに悪い奴らは一番時代劇になりやすいパターンなのです。肉食をやめて軽くなる身体はどこまでも走れるかのよう。

言うまでもなく肉を食べないということは動物を殺さないことにつながります。しかし自分の可愛がっている動物とスーパーに並んでいる肉片は別物としてしか学べない者共、さらに家畜として虐待を受ける動物達、狭いゲージで身動きも取れずに短い生涯を過ごす動物達。肉片にはならずともブリーダーに無理矢理種付けさせられてお腹に子供がいない期間のない生きる肉ベッドとなるいつまでも母になれない動物。どれもこれも人間が置き換わってしまえばいいのに!と思ってしまいます。

「やっぱうちの子(人間)は可愛いわぁ〜!今晩のおかずは小学生の太ももよ!」。なんか黄色人種の方が白人より美味しそうに思えてきます。

その昔、誘拐されて狭い檻に飼われる女性を描いた「色情飼育」という日活ロマンポルノ映画がありました。子供が食用として育てられるアニメもあります。実際にも人喰い人種として存在した先住民もいました。それぞれ紛れもなく肉食、牛や豚ではなく人を喰らう肉食(苦)。でも犬や猫が飼われるのだから人が飼われても・・・とは現代社会では通用しません。でも食用に育てられたら人も食べ物になるのでしょうか?!

たぶん牛や豚、鶏が食用としての認識から解放されることは私の生きているうちに実現できるとは思えません。現実に牛豚だけではなくいまだに韓国や中国では犬を食用として飼育して食べられています。本来は野生の動物の住処である場所に乗り込んで先住民である動物をジビエとして殺して自分を正当化して食している人もいます。それはまるで新大陸を発見して先住民を殺したコロンブスのように。そんなことが出来る世の中で猪や鹿、熊などは殺されて喰われても事件にはならないのですが、路上生活者は殺されただけで問題になっています。その違いは最終的に愛情込めて絞めて殺しているかいないか、美味しく喰ってしまえば問題にはならないのかもしれないと思ってしまいます。もちろん動物も人間も食べ物としたくはありません。どこにあるのか正解、どこまで許されれば正解、どこからが犯罪。

果たして正解はあるのでしょうか?!

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