フォクトレンダーで撮る①
はじめに
写真を撮るということ、それ自体はカメラでもスマホでもシャッターを押せば写せる気軽なものになりました。しかし”撮りたい写真”に真剣に向き合うと機材にこだわり、のめり込んでしまうのは時代では変わることがありません。レンズやカメラの歴史やその時代の背景をも含めて1枚に想いは写し込みたくなるものです。
Voigtländerの歴史
カメラ界で一番古い名前であるとされているフォクトレンダー=Voigtländerは、1756年にJohann Christoph Voigtländerによって創業されました。1756年の日本は江戸時代、9代目将軍徳川家重の時代。喜多川歌麿が3歳で葛飾北斎が生まれる4年前のことです。
名機フォクトレンダーといえばドイツを思い浮かべてしまいますが、ドイツ・ライプツィヒ生まれのヨハン・クリストフ・フォクトレンダーが24歳の時に創業した場所はオーストリアのウィーン、数学機器、精密機械製品、光学測定器を工房で作ることから始まりました。中世ヨーロッパ、ドイツ周辺の歴史には欠かせないハプスブルグ家、この誠の貴族やオーストリアの皇后に保護されて製品販売が出来たことが現在まで続くフォクトレンダーの名の礎を築くこととなりました。ニコンが日本海軍の潜望鏡レンズで名を馳せたように1815年潜望鏡眼鏡の帝国特権、軍事目的のために保護され重宝され実験用レンズ、ガリレオ式望遠鏡、拡大鏡を製造。2代目Johann Friedlich Voigtländer、ヨハン・フリードリッヒになるとオペラグラスで世界的な有名な会社として名が広まり、1840年になってからようやくカメラメーカーとして台頭していきます。
それでも日本はまだまだ江戸時代、第12代徳川家慶(いえよし)の時代。社長が3代目のPeter Wilhelm Friedrich Ritter von Voigtländer、孫のペーターが就任したのが1839年、時を同じくして世界初のカメラであるダゲレオタイプカメラがフランス政府により学士院において公開されたのが8月19日。フォクトレンダーとカメラを引き寄せたのはその発表されたカメラの欠点からでした。そのレンズは暗く、それは直射日光の強い光でも30分程のの露光が必要となるf17だったそうです。
ウィーン大学の Andreas von Ettingshausen=アンドレアス教授がパリに滞在していた時にたまたまそれを見ており、同僚のウィーン大学高等数学教授でありレンズ設計士でもあった Josef Maximilian Petzval、ペッツヴァール に明るいレンズは出来ないものかと相談を持ちかけ歴史は動きました。ペッツヴァールはフォクトレンダーとの仲をとりもち、オーストリア政府も全国の砲兵隊から優秀な計算手を選抜して計算中隊を結成して明るいレンズ製作の計算式作成を助け、翌年1840年にはf3.6のポートレイト用写真用レンズ The first Petzval portrait photographic lens が完成、撮影時間も1〜2分に短縮させました。それこそがフォクトレンダー製作による写真史上最初の数学的に計算された精密レンズでした。同年末には世界初の全金属製ダゲレオタイプカメラ/ Ganzmetallkameraも開発し、1841年に発売されました。
1845年に3代目社長ぺーターはブラウンシュヴァイクで弁護士の娘さんと結婚をしました。ブラウンシュヴァイク公国のブラウンシュヴァイクはドイツ鉄道網の中心で港もある海外貿易が盛んな地、そこにフォクトレンダーは支店を設立して事業を拡大していきましたが、わずか3年後にはウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命がヨーロッパ各国で起こり、ウィーン国家市民警備隊の指揮官General Wenzel Messenhauserの副官になっていたペーターも時代に翻弄され、3月の革命には家族ともどもウィーン郊外をも離れ、奥さんの故郷ブラウンシュヴァイクに転居、ウィーン十月蜂起でついにメッセンハウザー将軍の処刑にまで及ぶとペーターはウィーンに戻ることを諦め、ブラウンシュヴァイクに子会社の生産の拠点を設立してフォクトレンダー継続します。時は流れ1864年ペーターはオーストリアの皇帝フランツヨーゼフ1世から、フランツヨーゼフ騎士鉄十字章を授与されましたが、病気をわずらい同年に息子であるFriedrich Wilhelm Ritter von Voigtländer が社長代行に就任しましたが、同じくしてフォクトレンダーのウィーンワークスマネージャーの死によりウィーンでの事業は閉鎖されました。そして1878年に3代目ペーターが亡くなるとともに正式にフリードリッヒ・ウィルヘルム・リッターが4代目社長に就任。新社長が重役に迎え入れた学者達の設計で1896年には2群6枚対称型の風景写真に適したシャープさを持つCollinear(Kollinearコリニア)、1900年にはハンス・ハルティング3群5枚のHELIAR(ヘリアー)という豊麗な描写が肖像写真で有名な今でも名の残る著名なレンズを開発販売。新種ガラスを使用したレンズであり、昭和天皇夫妻の御真影もこのヘリアーにて撮影されているそうです。1923年に株式会社となったフォクトレンダーでしたが、1924年には4代目の死とともに創業者フォクトレンダーの血統は絶えてしまいました。
1925年に家業であったフォクトレンダーは株式会社への転換、その株式の99.7%を得たドイツ化学大手企業Schering AG(シューリング)、アドルフ・エーマーが5代目社長となり復活を果たします。工場のあったブラウンシュヴァイクは第二次世界大戦での大きな戦災もなく、ソ連ではなくイギリス占領地域という好条件が揃いシェーリンク株式会社としてのフォクトレンダーは1947年には3百万本目のレンズを生産し出荷することが出来ました。
それらのレンズはドイツ人レンズ学者の Albrecht Wilhelm Tronnier によるものでした。アルブレヒト・ウィルヘルム・トロニエはそれまでにもドイツのレンズメーカーのシュナイダーでXENAR(クセナー)、ANGULON(アンギュロン)、XENON(クセノン)を設計開発。のちにアメリカのFarrand Optical Company を経て1944年にフォクトレンダーに移り、1949年COLOR SKOPAR(カラースコパー)とCOLOR HELIAR(カラーヘリアー)、1950年ULTRON(ウルトロン)、1951年NOKTON(ノクトン)とAPO-LANTHAR(アポランター)を設計し発表しました。中でも当時大判用レンズであったアポランターによる写真は比類を見ず、その描写は雑誌のグラビアを一変したと言われた程といわれています。現代でもこれらのレンズは写真撮影するもの必ず1度は通るレンズとして時代を卓越したレンズ、比類ない特徴を維持したまま日本の長野でコシナによって継続され続けています。
これらのレンズ生産で復活したフォクトレンダーは1952年から1955年の間に急成長を遂げましたが、戦後台頭してきた日本製のカメラに押されることとなり次第に業績は悪化、時代の波に再び翻弄され1956年5月16日フォクトレンダーの株式がシェーリンクからCarlZeiss Foundation(カール・ツァイス財団)に売り渡されることになりました。
カールツァイスの傘下に入り、コンタックスI型開発者のハインツ・キュッペンベンダー博士のもとでのフォクトレンダーは1959年に世界初のスチルカメラ用ズームレンズ、36–82mm / f2.8 Zoomar(ズーマー)を開発、翌年に発売。1965年には世界初のフラッシュ内蔵カメラVitrona(ヴィトローナ)を発売するなど常に新しい技術で業界を牽引してきましたが、業績を挽回するまでには至らず1965年10月Zeiss-Ikon(ツァイス・イコン)とのカルテルにより「ツァイス・イコン・フォクトレンダー販売会社」を立ち上げ、1969年10月1日にはツァイス・イコンに吸収合併されてしまい当時2037人の工員のいたVoigtländer-Vertriebsgesellschaftはツァイス・イコン”の”ブラウンシュヴァイク工場として1/3、ニーダーザクセン州(Land Niedersachsen)が1/3、ブラウンシュヴァイクのカメラメーカーであったRollei(ローライ)がそれぞれ1/3を出資した集合企業体 Optische Werke Voigtländer(Optical Works Voigtländer)となりました。しかし1971年8月にはツァイス・イコンは一般向け光学器械事業から撤退を決めたために1972年にはついにブラウンシュヴァイクの工場も操業を停止することとなります。創業より216年続いたフォクトレンダーは独自生産のみならず工場すら失うこととなります。
名前だけとなってしまったフォクトレンダーの株式、商標権はすべて新たにローライに譲渡され、一眼レフカメラのRolleiflex SL35(ローライフレックスSL35)をフォクトレンダーのVSLシリーズとしても販売されましたが、その後ローライが1981年に倒産してしまったためにフォクトレンダー商標権は1982年にドイツのPlusFoto GmbH (プルスフォト)に移り、1997年には小売業者協会RingFoto GmbH(リングフォト )との共有名義になりました。
1999年からはプルスフォト、リングフォトから日本の株式会社コシナが商標権の通常使用権の許諾を受け、フォクトレンダー名や一連のレンズ名称の商標を使用してのレンジファインダーカメラや交換レンズを長野にてメイド・イン・ジャパンとして製造、世界各地に展開されている代理店とともにフォクトレンダーブランドを展開して守っています。
よろしければサポートをお願いいたします。 サポートしていただけますことが次へとつながります。夢をひろげて笑顔をひろめていきたいと願っております。