歴史学からみる火山噴火

 『火山と日本の神話 亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』(桃山堂)という本に載せたものですが、もうオープンして良いだろうと思います、

すべてを火山から考える


 ワノフスキーの論文「火山と太陽」は興味深いものである。それは倭国神話のすべての側面、その本質に火山神話をすえて考えようという立場の宣言であった。同じような主張を最初に明瞭に述べたのは、おそらく寺田寅彦が一九三三年に書いた論文「神話と地球物理学」であろう。寺田というと「天災は忘れた頃に」という警句が有名であるが、私は、この寺田の論文の価値はきわめて高いと思う。寺田の論文は素戔嗚尊についての記述が詳しいとはいえ、「国生神話」「出雲神話」その他の論点についてもふれており、ワノフスキーはこの寺田の論文をうけて、その議論を展開しているといってよい。両者を並べて読むことによって、私たちは、この国の神話研究の問題点を探り、それを発展させていくための示唆をえることができると思う。
 とはいえ、ワノフスキーの視点は、寺田の地球物理学的な視座とはまったく異なっていた。それは若い日にみたという何処か異国の火山噴火らしきものの夢に発した詩人的な直観によるものである。しかし、神話の世界を知るためには直観なるものも有効であろう。その意味ではワノフスキーが日本神話を火山的モチーフの観点から再検討しようとしたことは価値あるものであると思う。
 ワノフスキーがそのようなことを考えるにいたった事情については、「運命の謎」というエッセイに描かれている。著者が日本神話の分析に入っていくキッカケは日本にきてしばらく経ったころ、天孫降臨神話の描かれた「日本歴史記念絵葉書」というものをみたことに発するというのが興味深い。これは一種の異文化体験なのであろう。自分の夢と天孫降臨神話が似ていることを直観したというのである。
 その経験の二年後、一九二三年、ワノフスキーは伊豆大島に滞在し、火山の姿を見た。そして、爆発の予感と恐怖にかられて大島を去って、赤城山に上っていた時に、関東大震災の発生を知ったという。たしかに、これだけの経験があれば倭国神話に興味をもつのは当然であったろう。
 そもそも、寺田の仕事も関東大震災の経験にもとづき、日本の自然を知るために、その文化と神話を再検討しなければならないと考えたためであろう。寺田が東京帝国大学地震研究所(現在、東京大学付属)の設立に大きな役割を果たしたことはよく知られている。二〇一一年三月一一日の東日本太平洋岸地震と原発震災を経験した現在、私たちは、たしかにワノフスキーと寺田の経験の時代に、一度、立ち戻ってみるべきなのかもしれない。
 さて、本書の価値は、そのような直観に導かれながら、ともかくも、倭国神話の世界生成神話のモチーフはすべて火山神話にあるのだと宣言したことにある。一九五五年に発表された論文「火山と太陽」は、次のように述べている。すなわち、「国生神話」は大地の女神イザナミ(伊邪那美)が子どもを産むようにして、列島を噴火によって生みだしたということであり、スサノヲ神話は(素戔嗚)はスサノヲが火山神であり、同時に地震の神であることを示している。また、天孫降臨は天上の神話世界と火山神話世界の相互作用を描いたものであり、その舞台は九州の火山地帯にある。そして、出雲がもう一つの神話の主要な舞台として、それに対置されるのは、出雲火山帯の存在に理由があるということになる。
 前記のように、これらは寺田の主張とほとんど共通するものである。ただ、寺田は自然科学者であるが、人文社会科学の側からも、ワノフスキーよりも先に、あるいはほぼ同時に、似たような議論が提出されている。
 まず国生神話については、神話学の泰斗、松村武雄の『日本神話の研究』(第二部第三章、第四章)が、それは火山噴火の神話化であると述べている。この書の刊行は一九五五年一月、ワノフスキーの「火山と太陽」と同年である。松村は、先行する仕事として藤沢衛彦、野村八郎、山田孝雄、松本信広などの仕事を上げている。
 次ぎに、スサノヲが地震神であることをもっとも早く指摘したのは小川琢治『支那歴史地理研究』第一〇章(一九二八年)であろうか。小川は世界各地の神話における地震神の史料を博捜して問題を提起している。そして寺田の先の論文がスサノヲを地震神であり、火山神であるとしたことはいうまでもない。これについては、日本文学研究の益田勝実『火山列島の思想』(一九六八年、原論文、一九六五年)が現在の段階での研究レヴェルを代表している。

天孫降臨についての独自の主張


 問題は第三の天孫降臨神話であるが、ワノフスキーの論文は、これを正面から火山神話であると主張したことに独自の意味があった。もちろん、おそらく評論の形では、ほかにもそういう主張はあったに相違ないが、ワノフスキーは、論拠をあげての議論ではなく、一種の断定命題であるとはいえ、ともかくも倭国神話全体の火山神話性とあわせて天孫降臨神話の本質を説いたのである。ただし、これについても論点の示唆は松村によってなされていることは指摘しておきたい。つまり、松村の国生神話=火山神話説には、イザナキ・イザナミが立った「天の浮橋」というものは、天界と地界を結ぶ一種の梯子のように空裡にかかる岩石流(『日本神話の研究』第二巻第三章)であるという観点がある。この「天の浮橋」は天孫降臨神話にも、天空から下ってきたニニギが「天の浮橋にうきじまりそりたたして」と登場するのである。「天の浮橋」が、そのようなものであるとすれば、天孫降臨も火山神話の表現であるというように松村が考えていた可能性は高い。ただ、慎重な松村は、難解をもって知られる天孫降臨神話のテキスト解釈をつめないままに推測による議論をすることはしなかったのではないかと思われる。
 天孫降臨神話は、司令神タカミムスヒが天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を真床追衾(マドコオブスナ)で覆って、天磐座(アマノイワクラ)を押し離し、天の八重の棚雲をおしわけ、稲穂を投げちらし、「稜威之道別道別而(イツノチワキチワキテ)」、天の浮橋に「うきじまりそりたたして」、日向の高千穗峯に天降ったなどというものである。私見によって順に説明すると、真床追衾というのは、史料で「綿のごとき」物などといわれる繊維状の火山噴出物、天磐座を押し離すというのは、天に存在した巨大な磐座が天から切り離され墜落していくというイメージ、八重の棚雲とは垂直に聳える噴煙を表現したもの、さらに稲穂を投げ散らすというのも白い火山灰が各地で「米花」などと言われたのと同じこと、また「稜威之道別道別而」というのは、「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということで、火山雷のイナズマを描写したということになる。「天の浮橋にうきじまりそりたたして」とは、松村にしたがって、天界と地界を結ぶ一種の梯子のように空裡にかかる岩石流、ようするに溶岩流のようなものであると解釈できるだろう。それが「うきじまりそりたたして」というのは溶岩流を「浮いたり縮んだり、反り返ったり、立ったりして」と描いたのであろう。
 これについてはタカミムスヒという神が火山神であることなどをふくめて、前提となる分析を拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)に書き、また全体の概略は『物語の中世』の講談社学術文庫版あとがきに記したので参照願いたいが、細かな論証作業は別に発表したいと思う。

ワノフスキー古事記論の限界と問題点


 以上のように、ワノフスキーの仕事は、本人がどう感じていたかは別として、決して孤立したものではなかった。ただ、これを読んでいて異様な感をうけるのは、天孫降臨の先触れの神、猿田彦のサルタとは小アジア半島のサルダのことであるなどという種類の俗説が、そのまま引用され賛同されていることである。もちろん、第二次大戦中の大東亜共栄圏なる幻想を主導したイデオローグの中枢にいた高楠順次郎(東京大学印度哲学科教授、東京外語大学学長)や大川周明などは、ナチスのアーリア民族神話に対抗するようにして、それよりもさらに古層に存在し、なおかつアジアの中心から広がっていった「知識民族」の姿を追い求め、シュメール族をヒマラヤ最高頂に「天宮」を営む須弥山(スメル)人と解釈して、そこに釈迦の姿を重ね、アジア統合のための神話の中核にすえようとしたという(安藤礼二『場所と産霊』二〇一〇年)。こういうアカデミー中枢にいた人物が競うようにして大アジア主義の妄想を作り出したのである。ワノフスキーはそれらに眩惑される生活を歩んだのであろうが、そこで大アジア主義の妄想がロシア帝国的なユーラシア幻想と結合しているのは無惨としかいいようがない。異文化体験の罠のようなものである。
 これは一九世紀世紀末から二〇世紀にかけての非合理主義と神秘主義をめぐる思想史にとってはきわめて興味深い問題であろう。しかし、ワノフスキーの仕事の学術的な評価自体ということになるときわめて厳しいものとならざるをえない。そこにあるのは発想と推測であって、根拠のない発想と推測は夢想である。しかし、たしかに学問にとっては発想のない作業も職能的な責任ではあるが、それは職業内部の問題にしかすぎないであろう。ワノフスキーの神秘主義の甘さを指摘するのは当然であるが、作業不備の側面のみを強調して、その発想を軽視し、その挫折の事情を勘案しないということも正しいこととは思えない。それは高楠順次郎・大川周明らのイデオロギーを問う作業と一体のものとしてなされるべきものである。
 なお、こういう経過には、やはり冒頭に述べたように、歴史神話学の研究の側にも問題があったのではないかと思う。つまり、学界という職能世界でみれば、上記のように有益な研究はあったのであるが、倭国神話を火山的モチーフの観点から再検討しようという視野は、神話を取り扱う諸学の研究のなかに生かされることはなかったのである。そういう志向を厳密な学術的な立場から主張したのは上記の益田勝実のみであったといえると思う。
 私はこういうように問題が流れてしまう上で決定的であったのは、結局のところ津田左右吉の神話論の影響にあったと思う。津田が『古事記』『日本書紀』のテキスト批判を遂行し、倭国神話の政治性・文学性を徹底的に暴いたことの意味を否定しようというのではない。津田の仕事がすべての前提であることは明らかである。しかし、第二次世界大戦まで、日本国家が学問・思想の自由をきびしく抑圧するという状況のなかで、津田の仕事は神話学との対話を豊かに発展させることはできなかった。当時は考古学も未発達であり、津田は紀元前後から古墳時代の歴史のなかでの神話を位置づけ、そこに自然神話、火山地震神話の要素を考える資料的な条件はもっていなかった。
 また二〇世紀の神話学の側も、火山神話のような自然神話を重視する方法的な用意はなかった。松村武雄は、小川琢治の大国主命(オオナムチ)地震神説について「氏の専攻の理学から観ずると、こうした解釈に到達するかも知れないが、自分たちにはいかにも奇妙な論歩の進め方のように思われて遺憾ながら納得しがたい」として具体的な検討に進もうとしなかった(『日本神話の研究』第三巻)。これは松村が火山神話論の基礎構築に進み出ていただけにきわめて残念な経過であった。松村の仕事が倭国神話の研究において決定的な意味をもっていただけに、これがきわめて大きな影響をあたえたのである。
 こうして、一九二三年九月一日から二〇一一年三月一一日まで、日本列島という国土を歴史的・文化的に認識する上で必須の「倭国神話の火山的モチーフ」にという観点は稔りをみせないまま過ぎたのである。いうまでもなく、社会的にみても、日本が帝国と侵略の道を歩み、アジア太平洋戦争を引き起こすうえで、神話にもとづく国家イデオロギー(皇国史観)は決定的な意義をもっていた。それを全面的に再検討し、神話とは、日本列島に棲むものにとって何を意味するのかを論ずることも曖昧なまま過ぎたのである。
 なお、歴史学の側からの弁解としては、ともかく有名な石母田正の論文「古代貴族の英雄時代」(一九四八年)があったことは述べておきたいと思う。つまり、この石母田論文は、津田左右吉の仕事を引き継ぎながら、上記のような状況を切り換える仕事の構想を述べたものである。このような作業が必要であると判断した石母田の史眼はさすがなものであったと思う。文学的なセンスと論理力に優れた石母田の議論は、現在からみても瞠目すべきものをもっていた。ただ、学問は構想と発想のみで進むことはできない。当時の研究段階ではやむをえないことであったとはいえ、石母田は自然神話論に踏み込むことはなかった。たとえば、石母田は松村のスサノヲ・オオナムチについての賛意を表し、「この神を自然物または自然現象、たとえば地震・風・雷などの人格化・神格化した神と解釈する説と明確に訣別する」のが正しいとしている。石母田は松村が実際には火山神話論に親近的な議論をしていることを読みとらなかったように思う。自然神話論は学界の議論に持ち込まれることはなかったのである。今から考えれば、益田『火山列島の思想』は、その状況をくつがえそうとしたものということができるであろうが、それが発表されてしばらく後、石母田は病痾に沈んで、予定していた神話論の再検討、「古代貴族の英雄時代」の再検討の方向を示さないままに死去してしまったのである。

歴史学にとっていま必要なこと 


 以上、短文とはなったが、ワノフスキーの本書の意味についての歴史学の側からの感想と学界の状況の説明である。その上で、私は、現在の段階で歴史学にとって必要なことは、二つあると思う。
 その第一は、いうまでもなく、津田・松村・石母田・益田の段階にもどって問題を検討しなおすことである。とくに津田と石母田の関係をどう考えるかは、網野善彦が指摘するように、「戦後派」の歴史学にとっては根本問題である(『網野善彦著作集』二巻)。私は、石母田は神話論のレヴェルにおいて、津田左右吉との格闘を生涯の最後まで続けていたと考えるので、網野が神話論を視野に入れずに津田と石母田の関係を論ずることには違和感があるが、しかし、依然として、ここに問題が潜んでいることは網野の言う通りであろうと思う。
 そして、第二は、寺田寅彦の初心にもどって、地球物理学と歴史神話学のあいだで必要な議論をすることであろう。そもそもこの国の学術は自然科学と人文社会科学のあいだの協同という点がきわめて弱い。
 三・一一東日本大震災の後に私は、、二〇年以上前に九世紀、八四九年の大地震津波(貞観津波)の浸水域がきわめて広いことを確認していたことを示す論文を読んだ。そして行政や審議会、さらには東京電力の内部でも、それが問題とされ続けていたことを知らされた。私は『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書)という本を三・一一の前年に書いて、かぐや姫は火山の女神だと論じたこともあって、地震・噴火の史料をみてはいたが、このような動きはまったく知らないままであった。私の場合はあくまでも卑小な例であるが、そのなかで、歴史学は本気で地震や噴火についての研究をしなければならないと思いを決め、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)を書いた。そのなかで、関東大震災発生を予知し社会的に警告していた地震学者、今村明恒が第二次大戦前から、歴史地震・噴火の研究、さらには9世紀の大地震の研究の必要性を指摘していたことを教えられたのである。
 この列島の大地を認識するために、自然科学と人文社会科学、地球科学(地震学・火山学)と歴史学が協働し、広い公共の場所に問題を提起することが必須である。そして、そいう視野をもった上で、地震火山神話を議論することも大事な意味をもっているように思うのである。

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