850年の出羽庄内地震(M七.〇)と863年の越中・越後地震(M七.〇)について――拙著『歴史のなかの大地動乱』より。

 さきほど発生した能登・越後方面の地震ですが、死者や事故のないことを祈ります。
 九世紀には日本海沿岸で、850年の出羽庄内地震(M七.〇)と863年の越中・越後地震(M七.〇)の二回の大地震がありました。アムールプレートと太平洋プレートの衝突により発生するもので、これらの日本海沿岸の大地震の延長線上に南海トラフ大地震が発生するという地震学の有力な見解があります。
 各地域での最大震度の地震を地域史・地震史の問題として各地の常識にすることが必要です。また原発は廃止一択です。能登越後とはそこをねらったような地震です。
 拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)から関係の箇所を下記にコピーしました。
 


地震に追われた王―文徳天皇
(イ)出羽庄内地震(八五〇年)


 仁明の後をついだのは予定通り、皇太子の文徳。文徳は、この時すでに二四歳になっており、また文徳はすでに皇太子の時に、複数の男子を儲けていたから、その王統にはとくに不安はなかった。
 しかし、即位直後には二回地震が記録され、その八月末に「天南に声あり、雷のごとし」という事件があり、さらに翌々日、「地震、西北より来る。鶏雉(けいち)みな驚く」というやや大きな地震があった。「雉」が鳴くことが地震の前兆とされていたことは以前にふれたところであるが、これが文徳の不運の始まりであった。一〇月には出羽国から「地、大いに震裂」(大地が揺れ、地割れが走った)という報告があったのである。この地震は京都有感ではなかったとはいえ、『理科年表』によるとM七.〇。震源は、庄内平野の東縁、出羽丘陵にそって南北に走る酒田衝上断層群であるとされる。一八九四年(明治二七)、死者七二六人をだした庄内地震と震源も同じ、マグニチュードも同じという大地震であった。
 出羽国の報告には「山谷、處を易え、圧死するもの衆し」(山と谷が場所を替えるかのような山崩れが起こり、圧死者が多かった)とあるから、酒田衝上断層群の走る丘陵地帯で大きな山崩れがあったことは確実であろう。さらに、この地震をうけて出された詔に、集落は激しい揺れで破壊され、城柵は傾きくずれたとあるように平野部にも相当の被害があった。とくに、しばらく後の史料によると、この地震は国府を直撃し、その地形を大きく変化させた。「窪泥(くぼどろ)」のような陥没地が生じて、その上、海水が国府から六里の所まで迫ったというのである。これが海岸部分の地盤沈降であるとすると、この地震は内陸の酒田衝上断層群のみが動いたのではなく、日本海東縁変動帯の動きが背景にあったのかもしれない。
 例によって税の免除や救援、さらに城柵や建物の下の「残屍・露骸(ざんし・ろがい)」の埋葬などを「民狄を問わず」(平民であるか蝦狄であるかを問わず)に処置せよという命令がでているが、文徳の詔は、これまでにも増して美文調のものである。これはおそらく中国の『続漢書』『隋書』などの正史の記事の表現をそのまま取り入れたものに相違ないが、たとえば「出羽、州壊すること、偏へに銅龍の機に応じ、辺府の黎甿(れいぼう)(たみ)、空しく梟禽(きょうきん)の害をこうむる。邑居は震蕩し、厚載(こうさい)を踏みて安んぜず」という調子である。一応、要約すれば「出羽国の全体が損害をうけたのは、銅龍の機に応じたもので、国府の近辺の民衆の死体が鳥獣の害をうけるという有り様である。集落は激しく揺れて潰れ、厚載の上にいるといっても安足は遠い」ということになろうか。ここで厚載というのは、易経に「坤、厚く物を載す」とあるのによったもので、大地のことである。また「銅龍の機」というのは後漢(ごかん)の時代に、いわば科学技術庁長官とでもいうべき役職を意味する太史令であった張衡という人物が発明した地動儀(地震計)のことである。これは図■のように、銅製の円筒のまわりに配置された八匹の龍の口に載せられた銅玉が落下し、それによって地震とその震源の方向を観察するという機械であるという。

清和天皇と八六三年(貞観四)6月越中地震

 八六三年(貞観四)五月、地震の頻発と、飢饉、咳逆病の流行の中で、不安に駆られた朝廷は自分自身で、神泉苑において御霊会を開催するという挙にでたのである。右の全国二六七社の神々の昇叙の四年後のことであった。宮廷は、京都神泉苑で清和に近侍する稚児たちや楽人をあつめて華やかな歌舞演劇を競わせ、僧侶の読経によって怨霊をなだめようとした。そこに呼び集められた怨霊は、崇道(すどう)天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人、仲成、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)の六人などと記録されている。
 朝廷は、今春、咳病が流行し、百姓が多く病死したために、民間で行われているのと同じ祟り神・疫神祓いを朝廷でも行なうと説明している。しかし、これは王権が自分の内紛によって怨霊=疫神を生み出したことを認めるに等しい。清和の宮廷の不安はそこまで高まっていたといえよう。
 しかし、この神泉苑御霊会には効果がなかった。863年の御霊会の翌六月、越中・越後で地震が発生したのである。『理科年表』ではM七.〇。丘陵と谷が場所を変えて水泉が噴き出し、家が倒壊して圧死した人が多かったという。さらに余震が止まなかったというから、十分な史料は残っていないとはいえ、相当の地震だったことは確実である。新潟県長岡市の八幡林(はちまんばやし)遺跡に最大幅一五㌢、深さ一㍍で北東・南西方向に延びる九世紀半ばの地割れ痕跡が発掘されており、この地震にあたるものとされている。
 そして、翌八六四年(貞観六)、富士山が噴火する。この噴火は、富士山の噴火史上、最大のもので、前にふれた八〇〇年(延暦一九)の大噴火の規模をも越える溶岩型の大噴火であった。

日本海沿岸ではか一日宇では

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