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820/1096【謙虚な自分軸とは】なにもかもが変わってゆくこの世なら

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で820日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

820日目。母がかぎ針編みをして遊んでいて、娘が学校主催のオンラインでの歌のコンテストを見て楽しんでいて、夫が例年のごとく真夏と同じように半袖を着て元気に仕事をしている。

それらの条件が揃っていて、わたしがこれを書いていられる。家族のひとりがノロウイルスに感染して全員で吐き戻して救急車で運ばれていたら、もちろんのことこれを書くことができていない。しかし、条件というのはこれだけではないのだ。まず、太陽がないとヤバい。月もないと重力が狂ってしまってヤバい。災害が起こっていないのも条件になるし、言うまでもなくこの区域で大掛かりなテロなどが起こっていないのも条件だ。となると、他の人達の行動にも支えられているということになってくる。

では、この毎日投稿を成り立たせている要素というのは、どこまでのことなのだろう。天体の位置まで関わっているし、誰かがこの家にトラックでツッコんできていないことだって関わっている。ということは、何台も通り過ぎるトラックの運転手たちがちゃんと運転してくれているということ。ということは交通規則を考えてくれた人がいてのこと。ということは…と考えると、なんとこれは宇宙全体にまで広がってしまう。

宇宙全部で書いていて、あなたが読んでいるのも宇宙全体の存在とのコラボレーションだ。みんなで起こしている現象。なにひとつ自分だけで起こしていることはないのだと思うと、机の上のメモ用紙が、ペンたちが、ヘッドホンがその一要素だと解る。周囲のいろいろを見て「お、お前ら…!!協力してくれてるって…かわいすぎるんだが!!」と思えてきて危ない。

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800日目台も、あっというまに20%が過ぎ去ってしまった。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。色は無常、受想行識は無常、一切の行は無常なり(雑阿含経 ※ぞうあごんきょう)。

この世は諸行無常…この世のすべてがぜーーーんぶ、おなじ状態にはとどまることなく、すべてすべて変化している。このことは、仏教の影響のもとにあるわたしたち日本人の多くが、知っていることですね。

それを知識として知ってはいても、それを自分の感覚として感じることをしている人はあまり多くはないのかもしれません。

今日はこの世のすべてが同じく諸行無常であるということを感じると、謙虚な自分軸が自然と生まれますよ。というお話です。

”すべてのもの”がみな変化している…と考えたときに、わたしたちはついつい、「それじゃこのペンも、このジーパンも、この耳かきも…!」と分離したものたちのひとつひとつばかりを思ってしまいがちです。しかし、”すべて”というのは本当に、一切合切のことです。

これをイメージしようとしてみると、この世というものが人まとまりのものに思えてきますよね(実際にこうしたイメージをしようとするのが重要です。目を閉じるなどしてやってみる。こうした働きかけをするとき、わたしたちは感覚を探ってみます。その行為の作用が大きいのですね)。分離したものひとつひとつに、境界はあるにはあるのだけれども、すべてという観点からイメージしてみたときには、境界のない”ひとかたまり”です。

わたしたちの身体を、胃、爪、眼球、松果体…などのひとつひとつの分離したものの境界を意識することもできますが、ひとつの個体として意識することもできますよね。個体、と考えたときにはその人の皮膚表面が外界との境界になります。その個体が”ひとかたまり”になります。

この世界を、ひとかたまりだと思ってみたとき、あなたの心は、思いは、感情はどんな感じになりますか。その感覚を時々味わってみてください。わたしたち地球人の持っている広大な広大な感覚のうち、日常生活では触れにくいところに触れることができます。

この宇宙の分離している一切合切がパズルのピースのように噛み合ってこの宇宙を形成している。そのピースがそれぞれ変化していながら、互いに常に完全に噛み合っている。

この宇宙という、「”すべて”が一緒にひとつになって起こしているコラボレーション」を思った時、あなたはどんな感じがしますか。

あなた自身が、その宇宙を成り立たせているピースで、すべてと噛み合っているのだと考えてみたときに、どんな感覚になりますか。

あなたの嫌いな人が。
あなたが価値がないと判断しているその要素が。
あなたが奇跡だと思っているその要素が。

それらもすべてすべて、宇宙を構成している必要なピースであるという点において、完全に等しく重要なのだとしたら。どれも欠くことができないものなのだとしたら。

リンゴの木のうち、リンゴだけを重要だとして他を捨ててしまうとリンゴを得られなくなるように。根も、幹も、葉も、リンゴの実を生み出す要素としてすべて平等な重要度で必要なのと同じように。工場の煙が、駄菓子が、ワクチンが、カナダの森林が、青空が、放射線が。関係がないように見えているけれども、どれかがなければ、他もないのだとしたら。この宇宙がそんなところなのだとしたら。そう思ったときに、あなたはどんな感覚を覚えますか。

ほんとうにその観点に立ったとき、わたしたちからすべてのジャッジが落ちます。感情的なものとは別のところで、ロジカルに落ちます。

そしてそこから、自分にとって大切なものや好き嫌いをまっさらに見直すことができます。どうせ平等なのだとしたら。どうせ完全に同じ重要度なのだとしたら…ならば、わたしたちが心から嬉しくなるものを大切だと思っていいのだと、気が付きます。

ほんとはね、どれも平等に必要なものなんだけどさ。でもわたしはお花が好きで大切だな。晴れた空が好きだな。手書きの手紙が好きで大切だな。それは、わたしが好き勝手にそう見ているだけなんだな。と知ること。

ほんとはね、すべてがあっての宇宙だけどさ。でもわたしは個人的には自然破壊が嫌いだな。トカゲが嫌いだな。汚い部屋が嫌いだな。それは、わたしが好き勝手にそう感じているだけなんだな。と知ること。

それらのことは、わたしたちの心の鎖をほどいて自由にしてくれます。わたしたちの心の在りかたを、外側のせいにせずに済むようになります。「すべて無意味で完全に平等であるものたちを、わたしたちが好きなように見ているだけなんだな!」と知ること。そして自分の好き勝手にしているのだから、それを自分で変えることもできるのだということ。そこに気がつくのです…!!この気付きの訪れはヤバいです。これまでだってわたしたちはずっとその自由を持っていたのです。でも本当には気がついていなかったのだとわかったときの開放感は素晴らしいものです。

「ありゃっ!そんじゃあ、アタイの好きに見てよかったのね!!」「じゃあ早速もう好きに見ちゃうよ?実はなにもかも平等なのに悪いけれどね、ごめんあそばせ…!」「あえてやっぱり、わたしの勝手にさせていただくと、怖いのより優しいのがいいわ」「もちろん他の人が違った味方をしていて、それでいい!本来は上も下もいいも悪いもなくて、どうせ全部必要で、正解なんてないのだもの。わたしだってそこで勝手な好みの見方をしているのだもの」と思うことができるのです。

諸行無常を思ったとき、すべてのものが変わってしまう、何もかもが永遠ではない、どんな人とも別れが来てしまう…と考えるだけではなくて、”すべて”が変化しているということをそのままシンプルに捉えてみる。心を開いてただそのまままっすぐ素直に捉えてみると、とても壮大な感覚に触れることができます。

でもそれだけで終わってしまうのではなくて、日常を生きる感覚を楽しむことに使えてこそ、それが生きてくるのではないでしょうか。

なにもかもがただ常にひたすら変化している。すべてがひとつで、いっしょに変化している。その点でなにもかもが平等なのだと気がついたとき、そこに対してまっさらに「好き・嫌い・大切・欲しい・いらない…」と自分を軸にして選び直すことができます。

とても単純に言い換えてみると、どれが正解なんだろう、どれが価値があるんだろう、と考えるからわたしたちは苦しむんですね。不正解を選びたくない、価値がなくなったら嫌だ…というふうに。

例えばわたしたちが家を買うとします。そこで、いざ売る段になったときにはどれがいちばん高い価値で売れるのだろうと考えて、失敗を恐れて選ぶのに時間がかかっているとします。そのときに「売るときの価値はまったく同じなんですよ」と言われたら、晴れて「あらま!じゃあ好きなのにしよう!」と思えますよね。

同じようにこの世のことを「ある意味ですべての価値は同じである」という観点を持って見られるようになると、「じゃあ好きなものでいいじゃない!」と思えるということです。

過剰に自分の身勝手を押し通そうという意識からではなく、深いところからとても自然に優しく、「あくまでも自分の勝手をさせてもらっているのだな」という気付きとともにある、謙虚な自分軸を持つことができるのです。

哀れな平家の最後を歌った「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」…という歌の文句ですが、この仏教の大切な考え方に触れると、この世の見方や生きる感覚もが変化しますね。われら地球人の生きるこの世界は、まさしくワンダーランドですね!!

というわけで今日は、この世が無常であるということについて、わたしの好きな解釈のひとつをシェアいたしました。地球上という不思議な世界で同居中の、どこかのどなたかと、響き合えますように。

それではまた、明日ね!!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)