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1001/1096【往復書簡】移り気でいい、強くていい、嘘でいい、俺を騙していい

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1001日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1001日目。いや~4桁のインパクトってすごい!…と書いてみて今はじめて思った…自分、しつこくないか…??わたしは勤勉になったというよりも、やはり持ち前の非常に粘着質なしつこさを発揮しただけなのではないか…?

勤勉な人というのは、淡々と日々の責務を果たせるからこそ勤勉なのだろう。しかしわたしの場合は、ただただしつこいストーキング的な性質によって毎日なにかを続け、その結果勤勉な人と同じような行動を取ったことになっているだけなのだと思う。

そのしつこさが1000日続いた、ということのような気がする…三年間の毎日投稿という目標に対するストーキング行為をしているだけなのかもしれない。でもまあいいのだ、毎日の投稿ができれば、それでいいとしよう!

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※本日は数日開いてしまっていた、往復書簡のお返事をいたします

圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!!わたしは昨年一年間は日本に行くことができなかったので、またあれこれと祖国でこなしたいことをするのを、心待ちにしています。今年もまだワクチンの接種を待っている日々です。

これを書くのは勇気のいることですが(そして一部の人達からは盲目のお花畑人間と怒られてしまいそうですが)、このコロナ禍によって、わたしは人間をますます良いものだと思うようになりました。各国で陰謀論を信じる人達によるデモが起こったり、周囲にもそれを伝える人たちがいたりして、その根拠となっている情報をたくさん目にしました。不信感による問題が膿が出るように浮き上がって、情報も乱れましたが、わたしは個人的に人類が人類を救おうとしているということに最も心を打たれました。疑い出せばどこまでも疑うことのできる世界ですが、わたしはワクチンや感染専門医たち、その他この状況を良くしようとしている人達がいることを心から信頼しており、コロナ禍の起こる前にくらべ、心が晴れ晴れとしています。

疑うほうを選ぶのはとても簡単ですが、信じることを選ぶのはそれ相当に難しいことだとわたしは思います。恋人でも医療でも、信じたせいで損をしたくない、信じたせいで悪くなるのは嫌だと考えるのは、わたしたちにとって最もつかみやすい感覚なのだと思います。けれどもわたしは、信じたせいで損をするのならそれでいいと思っています。こんなことを言うと怪しい人みたいですが、疑うことでなにかしらの得をしても、それは長い目で見たらきっと、疑いと同じ振動を持っているものだと思います。

わたしは人類は良いものだと思います。わたしの脳内にもお花が満開なため、わたしは人類を根底のところで徹底して信じています。わたしは愚かだと言われてしまうかもしれないと思いますが、それはあまり気になりません。なぜならば、本当に愚かだからです。だからわたしの言うことなど誰も信じないほうがいいと思うのですが、わたしは世界を良くも悪くもないところだと思っています。だから、良いところだと思うことを自分の意志で選んでいます。こう書いてしまうと、本当にお花満開感が文章になっていて自分でも可笑しくなってきますが、本当にこの世界を良いところだと思います。

整体の野口晴哉先生もおっしゃっていましたが、自発的に動く(こちらから迎えに行く)ことが肝腎なのだと思います。冷水を浴びせられると風邪を引きますが、冷水を浴びると頑丈になります。食べられなければ餓死しますが、食べなければ断食になって健康になります。一切合切は、意識の置き所なのだと思います。

こちらから迎えに行くことの効力は、とてつもないものだとわたしも常日頃思っています。これぞわれわれが強く自由に健康になる道ではないかと思うております。これを応用すると、たとえば「恋人ができない」と悩んでいる人は、むしろ恋人のできない方向を大歓迎すると逆に恋人ができたりしちゃうという、非常に面白い法則でもあると思います。その人が「こうすれば恋人ができるんじゃないか」「こうしたら恋人ができないんじゃないか」と考えていることというのは両方とも完全にとんちんかんだったりするので、逆に考えたほうが良いのだと思います。恋人を作ろうと思って、デレデレして女性に寄っていくのに恋人のできない男性は、多分「恋人ができない」ことをこちらから歓迎し、「むしろ俺はもう恋人なんかいらねえ」と考えて、女性がいても気にもせずに「俺に寄ってくるんじゃねえ」という気を発していると、逆に女の子に惚れられるという現象に見舞われます。逆も然りで、女の人を見たり寄っていったりしてもキモがられるから、目も合わせないで存在を忘れようとしているような人は、「むしろ寄っていって嫌われよう」と考えて、「俺ってうざいから嫌ってくれていいから」と言ってあれこれ女子を構ってみると、逆に好かれるという現象に見舞われます。わたしたちが逃げていることを逆に歓迎することは、本当に魔法のような技だと思います。

未来は、楽しそうに生きている人が勝つ世界だと思います。勝つという言葉は競い合いみたいでアレですが、楽しそうに生きている人々が発するエネルギーは非常に前向きで愉快で爽快で、その空気に触れた人々も思わずハッピーになってしまう圧倒的肯定力に満ちています。この「思わず」というのが私は大事だと思っておりまして、思わず歌いたくなるですとか、思わず踊りたくなるですとか、思わず駆け出したくなるですとか、気付いたらすでに駆け出してしまっていたですとか、好きです。正しいからやるというよりは「やらずにはいられないからやる(やっちまう)」姿に、嬉しさを抱きます。やるべきだからやる、というのでは少々機械的です。やらずにはいられないからやる、というのは動物的で、好きです。私は、動物が好きです!!!

わたしはよく仕事でZOOMを使うのですが、ときどき自分の身体の調子の悪い日に当たってしまうことがあります。本来ならばそんなときは事情を話してリスケすればいいのですが、楽しみにしていたことなのでいつも強行してしまいます。そしてオンラインでカメラ越しに会う人に「今日わたしは調子が悪いのです」と伝えるのですが、画面に映る自分があまりにも元気そうなので、自分で驚きます。画面上の自分は、喩えるならば「この人、宝くじでも当たったのかな」というほどしゃかりきウキウキ元気な様子に見えます。
そのため、基本的に誰も「具合が悪い」ということに着目しないでいてくれます。わたしも忘れます。予定を強行したのに、結果的に元気になります。

そこで、まずは自分がそういうときに元気な理由を考えてみました。わたしは「やってダメだったら謝ればいい」と思っています。「今日は体調が優れないため、逆にご迷惑をおかけしてしまっても申し訳ないので、今日の予定をキャンセルさせてください」と伝えてくれる人がいたら、わたしはその日のことを「とてもきちんとした人だ」と感じます。それが悪いわけではなく、そういう必要のあるときももちろんあるのですが、それ以上になにか思うことはありません。対して、具合が悪いにもかかわらずどうしてもやりたいからとやる気を先行して強行し、結果的にぶっ倒れた人を見たら、「きちんとはしていないが、熱い奴だ」と思います。そして、後者に対して悪く思うどころか、また元気なときに一緒になにかしたいとすら思ってしまいます。その人が「ご迷惑をおかけしてすんません!!」と謝ってきたら、ご迷惑なものか心配ぇすんな!!と思います。そして、初めからご迷惑を考えてキャンセルしてくれた人以上に、その人に熱き好意を抱くものと思います。

このように考えているため、自分もそれで許されるだろうというお花畑を持っており、多少の具合の悪さは問題ではないと考えています。人は優しいから、やる気とやる気がぶつかれば許してくれると本気で信じています。すると、それを心配する心もどこかに飛んで、結果的に猛烈な元気がやってきます。人間の「やりてえっす!!!」という血眼のやる気というのはそれくらい、つまらない遠慮や心配を吹き飛ばす力を持っているものだと思います。

私が壇珠さんを大尊敬するポイントは、自分で自分を壊せることです。私は、自分を壊すために常に他者を必要としてきました。しかし、壇珠さんは自分で自分の思い込みに気づき、自分で自分をクラッシュアンドビルドしているように見受けられて、ダイソン系(間違えた、大尊敬)をしています。ここは男女差があるのでしょうか・・・男は、アホだから全部をやらないとわからない。だけど、女性は一部を見て十を知ると言いましょうか、自分の穴は自分で埋められる能力(?)を持っているように感じて、尊敬します。

このような、自分にとってとても自然な行為によって尊敬までしていただくとは恐縮なほどなのですが、たしかに自分はクラッシュ時もビルド時もセルフでやっています。誰に言われずとももう、壊すべきものがガッツリあるのがわかっており、わかっているままそれを無視するのも耐え難く、仕方ないので「自分、万歳」と言ってあとは魚雷と相成ります。

わたしは逆に、圭吾さんが他者に壊されることを覚悟していられる姿をすげえと思います。男性は「今ここ」に無防備なところがありますが、わたしはそれをカッコいいと思ってしまいます。逆に女性は、「この先」に無防備なところがあって、女性のそれをとても強く可憐だと思います。

女性には現状を見る力があって、男性には先を見る力があるものだと思っています。女性は現状を見るので今の問題がわかっていますが、その代わりあまり後先のことを考えません。男性は先を見ているため、進みたい方向はわかっていますが、その代わり現状の問題を放置しがちだと思います。そのため、カップルが別れるときというのは、女性は現在の問題をさんざん見て、それを男性に伝えるのにも別れを視野に入れているのに対し、男性は現状の問題を言われてもあまり着目できず、本当に女性が目の前から去るまで別れの危機を感じない傾向があります。そして別れたあとも、女性はすぐに泣きはじめて一週間で別の人を好きになったりするのですが、男性は数ヶ月してからようやく悲しくなってくるのだそうです。わたしもこうした男女差については実体験を伴ってそのとおりだと思います。男と女は、今ここの現状を見る力と、先を見通す力を互いに補い合えたら素晴らしいと思います。

私は、男に対して「一回死んでこい」と言える女性が好きです。そんなに頑張らないでとか、あんまり無理しないでとか、言いたいことはわかるのですが逆効果だと思います。男は振り切ってこそだと思います。振り切れていれば気持ち良いのです。何かが停滞しているのは、振り切り方が中途半端だからです。何処かでうまくやろうとかかっこつけようとか同情してもらおうとか、打算が働いているのです。それじゃあダメです。死してなお生きる。このマインドが大事です。あとは任せたとか言いながら、死に向かって己が身を賭ける時に男は最も生き生きとします。男は死にたいのです。中途半端に生きようとすると、逆説的ですが、中途半端な生き方になります。だからこそ、ただ一言「男見せてこいや」と女性に言われると、男は「はい」となるのです。

完・全・同・意です。わたしがクラブで働いていた水商売時代があることは周知のことですが、このときに学んだことがあります。なぜ夜の女性たちは魅力的なのか。それは男性に対して遠慮がないからです。「わたしのために来い」「ボトルを入れて売上に貢献してくれ」「それがわたしの欲しいもの」ということについて開き直っているからです。もちろん夜の女性たちの中にも、そこに振り切れない女性もいます。彼女たちは、自分が女性であることに自信を持てずに、つい優しさを発揮して相手のことを考えてあげたりしてしまうのです。が、モテて売れるのは「アタシを喜ばせたければ店に来い」「それが男性たちの喜びだ」と本気で思っている女性たちなのです。

「無理しないで」「たまに会えれば嬉しいから」「お店に来てほしくてメールしたんじゃないの」みたいなことを、自信がないせいで相手に媚びて遠慮して伝える女性はモテません。しかし、同じ内容を伝えたとしても、明らかに嘘っぽく見える女性はモテていました。わたしが知っている限りでは、売れている女性は「毎日指名しに来て」「たとえわたしが休みでもわたしを指名して貢献してもいいわよ」「(財力的に)それくらいやれるでしょ」などと平気で言ってみんなと笑える女性でした。まるで女版ローランドといえる女王蜂のような女性は、男性を優秀な働き蜂としてもてなします。すると働き蜂はますます財を得るのです。女王蜂たちは、自分を働き蜂のように扱う女性よりもモテます。男性は、女性が働き蜂のようになるのを見ても嬉しくお酒を飲めないのだと思います。指名しても、辛い思いをして働かせてしまっているようで可哀想な気分になるのが、嬉しくないからだと思います。

女性はよく自分を一途な女に見せようとしますが、わたしが男だったらそれをあまり魅力的だと感じません。なんというか、はっきり言って重いです。そんなに一途だと、一度手を出したら一生責任を取らなくてはならない気がするので、簡単には近寄りたくありません。一途な女性をなにで傷けてしまうのかがわからないし、女性を傷つけるのは嬉しくないからです。わたしの性格が悪いのかも知れませんが、そういう人とのやり取りは非常に面倒だと感じます。それに、他の男にも目を向けそうな女性のほうが、楽しいし燃えます。

一途で、ひとりじゃ生きられないのに迷惑をかけないようにしようとする女性は、隙がなくて、悲劇的で、お近づきになるのが辛いです。けれどもその反対で、多少移り気な心配があって、ひとりで生きられる強さがあるくせに頼ってくる女には、わたしが男であったなら心が動きます。つい頑張って笑顔にしたくなります。他の男で笑顔になっていると、良かったなと思いながらも、猛烈に悔しいです。その嫉妬は、その男と仲良くしてほしくないという嫉妬ではなく、俺のほうがもっと笑顔にしてやる!!という心です。

だから、あなたしか見ないわ、他の人なんて要らないわ、あなたに迷惑はかけないわ、あなたのためにわたしが頑張るわ、とされ始めたら、その人のいるところに帰るのが億劫になってしまいます。帰るのが可哀想になります。極端に言うとですが、「こないだ捕ってきてくれた魚美味しかった!!あれのもっとでかいのが食べたい!!」と言って、せっかく帰ってきたのにすぐに次の要求をしてくる女の人のところに帰りたいです。次の任務はなんだろうと思うとワクワクします。そこで自分は、その女が俺のためにではなくて、自分の魚を早く俺に捕ってこさせたいがために、俺にエネルギーをチャージする目的で作ってくれたおにぎりを食って、すぐにでも海に行きたいです。そして必ずやその魚を捕って帰ってやります。家で喜んでくれる人がいるから、俺は海で燃えます。絶対ぇに捕る。捕るまで帰らねえ。そして男の俺だったらそれを捕って家に帰って見せて「どりゃあああ!!見たかアアア!!」と言いたい。馬鹿だから、それだけが言いたい。俺が食わなくてもいいから、その移り気なはずの女の本気の黄色い喜声が訊きたい。それもこれも、その女が食べたいと要求してくれなければ始まらないことです。

男のわたしだったら任務が欲しい。俺をお前の優秀なエージェント007だと思って欲しい。ちゃんとこなせないと、別のエージェントに頼む雰囲気バリバリの身勝手でいて欲しい。なのに、あなたが最高のエージェントよってバレバレの嘘で騙して欲しい。俺は騙されたふりをする。

その逆をされたら俺は耐えられない。女に遠慮され続けて気を使われ続けて、頼んじゃ悪いからと言って女が自分で任務をこなしはじめたりまでしたら、俺は情けなくて安心すぎてつまらなくて、任務のない日々に退屈して、別の女から任務をもらいたくなってしまう。と、このように思います。

だからわたしは、女性は男性に遠慮はしなくていいのだと思います。それはフィジカルな関係においてもそうなのだと思います。女性は自分の快楽を男性に要求する側であって、男性のために我慢したり媚びたりするくらいなら、自分の身体に触らせてやらないというくらいの意気込みがあったほうがいい気がしますが、これについて、圭吾さんはどう思いますか!いきなりの下ネタ質問ですみません!が、こういうところでも圭吾さんは男性なのだから遠慮せずに甘えてみるとします!ウホー!

男性の悩みというのは、すべて女性で吹っ飛ぶものだと思います。仕事の悩みも、体型の悩みも、お金の悩みも、実力の悩みも、結局のところは女性を通して解決するものだと思います。女性を通すことで、悩みの根源となっているものが溶け、萎縮したものが拡大し、滞っていたものが発展し、引き締まったり震え上がったり燃え上がったりして、良い方向に行くのだと思います。だから女性は、男性になにかを任命することを恐れてはならない。頼んだり甘えたり寄りかかったり蹴り飛ばしたり、死に場所を与えることを恐れてはならない。ダメな僕ちゃんだけど、わたしはそれでも添い遂げますなんて言って自分を粗末にしていると、ダメな僕ちゃんをダメなままにしてしまいます。女は度胸、男は尽力!!次のお返事もまた、絶対面白いものにしてください!!頼んだぜ待ってるぜ、俺は圭吾を信じるぜ!!たりゃあ!!!

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)