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行き先

いつも元気。日本が大好き。毎週会う度に日本語が上達している。
そんな彼女が先週の礼拝後、真剣な面持ちで電話に応えていた、長い時間。
私たちは賞味期限切れのインスタントラーメンを見つけて、みんなで美味しく食べよう!とわいわいキッチンで準備をしながらも横目で気にしていた。
さぁ食べようねーと食べ始めて間もなく

ある瞬間に彼女は泣き崩れてた。
あっ天に召されたのだ、、とわかった。

もちろんみんなにもわかった。彼女の泣き声を聞きながら、すっかり冷めて伸びていくラーメンを何も言わず見ていた。

最初に牧師夫人が行って彼女の肩を抱いた。私も後から彼女を抱きしめて頭にキスしていた。

2年前を思い出していた。
私には分かった。彼女が今どんな気持ちなのか。
愛する家族の突然の死。

まして彼女にはどうする事も出来ない。遠い異国にいて、同じ悲しみの家族と抱き合い涙を流す事も。ただその瞬間温もりがあったのはせめてもの慰めになれたかもしれない。

私たちの手をギュッと握って泣いていた。

宣教師になるというのは、どんな覚悟だろうか。
すぐに帰る事も出来ない遠い国へ行き、神さまの為に人生を捧げて行くとは。

最初の頃に話してくれた「お父さんはとっても悪いお父さんでした。けれどイエスさまを信じました!」「わー!すごい!奇跡ですねー」「はい!」彼女は目を輝かせていた。

私たちの希望は必ず天国で会える、ということ。そして召された瞬間にイエス様の胸の中にその家族がいるという確信。

もちろん、また会えるって分かっていても、悲しいし寂しさは当然ある。

けれど、イエスさまを受け入れていないならその確信は無い。

宣教師達をフォローしている先生にすぐに連絡を入れると、東北にいたその先生はすぐに新幹線で戻るといい飛行機のチケットもすぐ取るからと、言ってくれたそうで、彼女も帰国の準備の為すぐに家へ帰る事になり牧師夫妻も自宅まで送ろうとバタバタと準備が始まった。

その待ってる少しの間に「祈ってもいい?」とそこにいた女の子たちと彼女を囲んで1人1人お祈りする事が出来た。いつもキャピキャピした若い女の子達がどんなにその時に彼女に心寄り添っていたか、そのお祈りで分かった。そして彼女にも伝わっていた。

次の日の帰りの飛行機の中、ずっと悲しみの中だったのが、ある時から「今、私は祈られているんだ」という平安に変わったと教えてくれた。

無事帰国した彼女のSNSには、変顔をした噂通りの楽しい家族の写真が出ていた。

「家族と会えたんだ、分かち合えたんだ」と安心した。

あの日家に帰ってからもずっと彼女の泣き崩れた姿が頭から離れなかった。
そして2年前弟を失った日を思い出していた。

イエスさまを伝えられなかった、何もしてあげられなかった。自分の事でいっぱいだった。

報告のラインをしながら、教会のお姉さんの言葉に(御言葉)に励まされていた。「実は少し落ち込んでいたんです」と伝えると次の日も可愛いスタンプで励まし御言葉で仕事へ行く為の背中を押してくれた。

もう家族を失いたくない。確信の無いところに行かせたく無い。私自身の歩みにも確信を持ちたい。

家族の救いは神さまの御心、約束。もう成就した事。それを握って、主の御声にだけ従って行きたい。残りの数十年の為ではなく100年後そのずっと先まで続く消えない希望の為。

今日は弟の誕生日。

来週は3回忌の法事だという。
お線香はあげない。お坊さんにも(図らずも)御言葉を配る。「みちこはアーメンだからね」と言われる。

はい。
私は神さまにいつもアーメンでいたいです。
行き先をしっかり見つめて。

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