【ショートショート】#ラの番人
あっ、まただ。ラのシャープ。
夜中にフルートのような音が聞こえる。ずっと同じ音、ラのシャープが微かに響く。他の音はなく、それだけが、
「#ラー#ラララー」とか、
「#ララー#ララー#ラー」
というように異なるリズムで鳴る。止んだかと思うと、またしばらくして鳴り始める。私は気になってベッドから出て、音の出どころを探った。
寝室を出て、キッチンへ向かった。冷蔵庫、電子レンジ、食洗機…と順番に家電に耳を当ててみる。さっきより音は近づいたように思えるが、なかなか特定できない。ふと気になって、食器棚を開けた。すると#ラがひときわハッキリと聞こえた。まさか、こんなところから?棚を見渡すと、一番上の段で、酒の徳利がカタカタと小さく震えているのを見つけた。これだ!
恐る恐る、徳利を手に取った。音は止んでしまった。ダイニングテーブルの上に置くと、ふたたび徳利の口の部分から音が鳴り始めた。
「なんだこれは、いったい」
私は思わず声を上げた。すると徳利が喋った。
「どうぞここからお入り下さい」
「えっ、入れだって?どこから?」
「私の口からです」
「そんな小さなところへどうやって入るんだよ。それに入ってどうするんだ?」
「大丈夫。さあ指を入れて」
私は言われるままに、指を徳利の口にあてた。その瞬間に、みるみる私は徳利の中に吸い込まれていった。
気がつくと、だだっ広く真っ暗な空間に私はいた。何もないところで、ラのシャープが切れ目なく大音響で鳴り響いている。
「こ、ここはどこだ?」とつぶやく。
頭の上の方から、声がした、
「ラのシャープの生まれる国だ。地球上の全てのラのシャープはここから生み出されている。演奏家の夢見るような楽の音も、小学生の素朴なリコーダーも、ありとあらゆるラのシャープはここで生まれるのだ」
「ということは、ラのシャープ以外の音にもそれぞれ国があるっていうこと?」
「そうだ。察しがいいな。ここを入れて全部で12の国が別々に存在しておる。ドの国、ミのフラットの国、ファのシャープの国、というふうにな」
「へえ、そうなんだ…。あっ、それで私はどうしてここにいるのでしょう?」
「お前には絶対音感がそなわっているようじゃな。だが、音楽家になるでもなし、調律師になるでもなし、その能力を無駄にしている。だから、ここでラのシャープの番人をしてもらおう。今の番人が引退するんで、新しい番人を求人中なのだ」
「なんだって?こんなところで番人だって?」
「そうだ。ラのシャープが狂わないように見張りをしてくれ。音楽芸術の繁栄の一端は君の肩にかかっておる。名誉なことだとは思わないか?」
「いやだ、絶対にいやだ、戻してくれー!」
目が覚めた。なんだ夢か。あ〜怖かった。
しかし夢でよかった、では済まされなかった。翌日から世の中の音楽という音楽で、ラのシャープがなんだか微妙な音程なのだ。ひょっとして、あの夢は本当で、未だにラのシャープの新しい番人が見つからないせいなんじゃないか、と私は思い始めた。
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