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【ショートストーリー】真鶴まで

 僕の親友の名前は村崎志季部。そう〈むらさきしきぶ〉だ。陰で〈源氏〉と呼ぶやつらもいる。志季部は名前のことでは常にコンプレックスを抱えていた。「まったくウチの親のメンタリティーを疑うわよ」っていうのが彼女の口癖だった。「メンタリティー」なんて僕の知らない言葉を使えるほどに大人で賢いやつだ。

 この名前のせいで、新年度に先生たちが初めて出席を取る時が最高の屈辱だと、志季部は言う。「むらさき、えー、むらさき、しきぶさん?えっ紫式部?ご立派な名前だなあ」なんて言われて、その度嘲笑を買うのが耐えられないそうだ。

 そういう点では実は僕も少し同じ思いをする。志季部ほどじゃないけどね。僕の名前は、大塚誠也。君付けでよばれると、どこかの製薬会社みたいに聞こえる。だけど決して〈同病相憐む〉みたいな気持ちで僕らは親友になった訳じゃない。幼稚園の頃からの幼なじみなんだ。古典文学も製薬会社も知らず、しっちゃん、せいちゃんと呼び合っていた頃からのね。

 だから志季部に彼氏ができた時は、話し相手がいなくなって手持ち無沙汰な毎日だった。彼氏は一つ年上。成績優秀で先生の覚えもめでたいやつだから、そりゃ志季部には刺激があるわ、鼻が高いわで嬉しいだろう。今までよく僕なんかの相手をしてくれたと感謝したくらいだ。まあ、せいぜい僕もそのうちとびきり可愛い彼女でも見つけてやるぜ、と思っていた。

 それが、大変なことが起こった。その彼氏が自宅マンションから飛び降り自殺をしたのだ。学校中が騒然となった。前途有望な青年の死に、皆が口々に「思い当たる理由がない」と言った。憔悴しきっていた志季部に僕はかける言葉も思いつかなかった。

 3か月が経とうという頃、志季部が、一緒に行ってほしい所があると電話してきた。僕は行き先も目的も聞かないうちから「いいよ」と答えていた。待ち合わせの駅のベンチで志季部は言った。
 「あのね、せいちゃん、彼が死んだのは、このせいだったと思う」
 彼女は一枚の紙を僕に見せた。そこには鉛筆で、「お前と村崎志季部は異母兄妹」と書かれていた。僕は志季部の目を見て尋ねた。「なにこれ?…… えっ、まさか本当なの?」
 「うん。そう」彼女は事もなげに言った。「実はね、私は知ってて彼に近づいたの。でも彼は何も知らなかった。このメモが彼のロッカーに入っていた時、私たちの仲に嫉妬する〈たちの悪いいたずら〉だと思ったみたい。当然よね。それで私は自分が知っていることを全部彼に打ち明けたの。彼のお父さんと私の母が昔、そういう仲だったことがあって、私を身籠った時、一人で産んで育てようとしたんだけれど、今の父が全部承知の上で結婚した、という私の出自の秘密を。そうしたら彼『考えたいから独りにしてほしい』と言って行ってしまった。それが彼と話した最後よ」
 「異母兄妹と分かって、なんであいつに近づいたんだ?」
 「私が小三の時にお母さんが死んで、ずっと父ひとり娘ひとりだったでしょ。親戚もいないし、お父さんも本当のお父さんじゃないとわかって、急に血の繋がってる人に会って話してみたらどんな感じかな、って… 最初は好奇心からよ」
 「でもあいつは知らずに志季部のことを好きになって付き合うようになったんだろ?そのメモを見るまでは、血の繋がった妹なんて夢にも思わずに」
 「そうね。何度も打ち明けようと思ったよ。でもその度に『今じゃない』って気がして延ばし延ばしにしちゃってたの。まさかあんな形で知ることになるなんて思わなかったから」

 志季部がその日、僕について来てほしいと頼んだのは、真鶴にあるという彼女のお母さんのお墓だった。志季部と名付けてくれたお母さんの墓前で話したいことがある、と彼女は言った。僕は、じゃあ行こう、と返事して電車に乗った。
 
 「せいちゃんは、うちのお母さんのこと覚えてる?」と訊かれて、僕は「うん、うっすらね」としか答えられなかった。本当は顔も姿も声も、よく覚えているんだ。いたずらしておばさんに怒られたことも、膝を擦りむいて手当てをしてもらったことも。だって僕らは毎日、本当の兄妹みたいに一緒だったんだから。でも今はおばさんについて、なんて言ったらいいのかわからない。

 「私ね、今では自分の名前好きよ。「村崎」という家の子として生まれたのも、だからこそ「志季部」と名づけられたことも。全部理由があることだったのよ」と志季部は歪みかけた顔を、立て直すような力強い笑顔で言った。

 志季部はこのことをおばさんに伝えようとしているのだろうか。実のお父さんや、育ててくれたおじさんのことを今、どんなふうに思っているんだろうか。そして亡くなってしまった彼であり、お兄さんでもあった人のことを。いろいろ聞きたいことはあったが、僕は言葉を失くしていた。

 小田原駅からJRに乗り換える時、ただひたすらに前を向いて早足で行く志季部の後を歩いた。真鶴に着くまで、と僕は思った。真鶴に着くまで、志季部に僕の覚えてるおばさんの話をしよう。そして僕も、天国のおばさんに伝える言葉を探そう、と。

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