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母方の祖母のこと

母方の祖母が96歳になった。
母方の祖母は私の実家の近くに住んでいて(というか私の実家を祖母の家の近くに建てたというのが正しい)、帰省すれば会いにいく。高校卒業して実家を離れてからは年に数回、会えるか会えないか。幼い頃に比べたら関わり合いがかなり減ってしまったけれど、母方の祖母が誕生日を迎えて、彼女の人生を(私が知っている限りの範囲だけど)振り返ると結構面白いんじゃないかと思ったので、忘れないうちに書いておこうと思う。

ちなみに父方の祖母は私が中学三年か高校一年の時に亡くなっている。当時80歳くらい。父が40歳の時に亡くなっているから多分そう。父は7人きょうだいの末っ子で祖母が40歳の時に生まれたので。祖父は父が2歳の時に亡くなっている。父の実家は農業で生計を立てていて、私が小学生の頃までは、祖母は一人で茅葺き屋根の囲炉裏があり土間がありかまどがあり風呂は五右衛門風呂で外にポットン便所がある家に住んでいた。こちらはこちらで色々ありそうだけど、今回は母方の祖母の話。

母方の祖母(以後、祖母)は大正15年12月生まれ。もうちょっと遅かったら超絶レアな昭和元年生まれだった。
茨城の筑西といっていい感じのところに生まれ(電車では行ったことがないけど、多分水戸線で行けるはず)、幼少の頃はあまり苦労してなかったっぽい。女学校を出たそうだ。そして女学校への登下校は、自分の家以外の敷地を踏まずに行けたらしい。どんな金持ちだったんだよ。
しかし祖母の父、私にとっての曽祖父が酒とギャンブルで土地を切り売りしてしまった。確かに曽祖父、何度か祖母の家に滞在していた時に会ったけど、昼はパチンコ、夜は大酒飲みって感じで、身を持ち崩した感じがあったかも。

祖母が生まれた一帯は同じ苗字の人たちが住んでいる地域で(田舎あるある)、祖母には同じ苗字だけど別系統の許婚がいた。私の祖父である。彼は海軍に入り戦争に行き、台湾に行ったりしていたのだけど、終戦時は北海道にいた。たまたま上官が広島出身の方で、早く広島に戻りたいと本土行きの飛行機を出したので、それに乗って戻ってきたのだそう。
無事に帰還した祖父と祖母はめでたく結婚。同じ苗字だからわからないけど、祖父が婿養子に入った。なぜなら祖母は6人きょうだい(5人だったかも?)の長女で、下もずっと女子しか生まれず、最後にようやく男子が生まれたから。最終的には末っ子長男が家を継ぐんだけど、とりあえず祖母が長女として婿養子を迎えることになったらしい。

しかし、祖父母は筑西の地元を離れて、県央へ。祖父の仕事の関係だったのかなと思うけど。祖父は日立製作所の社員寮の寮長でした。
みかん箱がちゃぶ台代わりの貧乏生活で共働き。伯母と母が生まれ、それでも祖母は仕事を続けていたらしい。母は寂しかったとのことで、結婚したら専業主婦になると決めたそうです。
多分ずっとなんらかの仕事をしていた職業婦人だった祖母。手先が器用で和裁もできたし、編み物もできたし。母は家庭科の宿題の靴下を祖母に編んでもらったそう。私もピンクのモヘアで編んでもらった帽子とウサギのマフラーはとても気に入っていて、結構長いこと愛用してました。

また話がちょっと横道に外れますが、私の母は高校卒業後の自動車ディーラーに就職し、そこで先輩社員だった父と出会い、結婚し、結婚後2年くらいは祖父母宅の近くに家を借りて住んでいたのですが、その後父の転職で東京で暮らしていました。私が2歳から幼稚園までの期間です。その間に私の妹が生まれ、標準世帯の4人家族になりました。

ずっと東京にいる選択もあったと思うのですが、私が就学するにあたり、両親が色々考えたのでしょう、なぜかまた茨城に戻ることになりました。祖父母宅は結構広かったので、とりあえず祖父母宅に引っ越すことに。父はいわゆるマスオさんになりました。

そんなこんなで私は小学校に入学すると同時に祖父母宅での三世代同居になりました。祖父母はまだ働いていましたし、伯母も独身でバリバリ働いていましたし、母が家事を回すことで祖父母も楽になったんじゃないかと思います。

当時祖母は電話交換手として働いていて、一度職場に遊びに行ったことがありました。インカムつけてよそ行きのちょっと高い声で電話を受け、コードをブチブチ差し替える祖母の姿はとても格好良かったです。電話交換手って素敵だな、かっこいいな、と思ったのですが、私が就職活動をする頃には電話交換手の仕事は世の中からなくなっていました(さみしい)。

祖母は多分55歳くらいまで働いていたと思うのですが、早めにリタイアし、ずっと習いたかった日本舞踊を習い始めます。歳も歳なので時間はかかったけれど、名取りになり、師範になり、自宅もリフォームして日本舞踊教室を自宅で始めるのです。すごい。よく考えたらほんとすごい。なんかパワフルなおばあちゃんだとは思っていたけど、超すごいわ。

地元のイベントにも出演してたし、デイサービスなんかにも踊りに行っていたので、自分がデイサービスを利用するようになった時には一悶着あったのですが(まあそれだけパワフルおばあちゃんだったのでプライドも高く、踊りを見せる立場だったのに見る側に回るのは嫌だったのでしょう)、今は大人しくデイサービスにも行っているようです。

祖母は人の話に騙されやすい面もあり、アムウェイもタッパーウエアもミキプルーンも買ってたし、羽毛布団も買わされてたり、そういや壺も買ってました。羽毛布団と壺は返品できたみたいだったけど。
新しいものも大好きで、エイトトラックのカラオケセットや美容院仕様のヘアドライヤー、美顔器、などなどもすぐに飛びついて買っていたし、シワ取りや鼻にプロテーゼを入れる整形とかもやってて、伯母や母を呆れさせていました。

4年前、体調を崩して入院していた時はボケてしまって私のことも忘れていましたが、退院して家で過ごすようになるとボケも良くなって(不思議ですね)今年の夏に一時帰国した時はちゃんと私のこともわかってました。良かった良かった。

なんかもっとエピソードがあったような気もするんだけど、とりあえず今日はこの辺で。

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