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第二の粘土板 荒野の野人エンキドゥ

 その頃、大いなる天で、運命を定める七柱の大神が集まって、定例会議を開いていた。すなわち、天空神アヌ、大気神エンリル、水神エア、性愛と金星の女神イシュタル、太陽神シャマシュ、月神シン、大地母神ニンフルサグだ。 
 「次の議題――」
 天空神アヌは、厳かに言った。
 「――ウルクのエンシ、ギルガメシュに対する民からの苦情」
 七柱の大神の間で一瞬、沈黙が支配した。
 「黒頭共が神々に対して苦情だと」
 大気神エンリルは怒りを露にした。
 「――ウルクの民はどんな苦情を申し立てている」
 水神エアは尋ねた。天空神アヌは、ギルガメシュが、マシュダを処刑した経緯を説明した。
 「どこに問題がある。当然の裁定であり、ギルガメシュは権利を行使したまでだ」
 大気神エンリルは、ギルガメシュの肩を持った。
 「マシュダという男は見所がある。だが結末は哀れだ」
 大地母神ニンフルサグは言った。
 「だが所詮は敗者。勝ったのは生き残ったメスヘデとゲメギグンナ。ギルガメシュはそれを手助けしただけに過ぎぬ」
 性愛と金星の女神イシュタルもギルガメシュの肩を持った。
 「だが殺す必要はあったのか。余計な事をしたのではないか」
 水神エアは指摘した。神々は再び沈黙した。
 「確かにギルガメシュには権利がある。だが使い方が適切ではない――」
 水神エアは続けた。エアは知恵も司っている。
 「――シャマシュよ。どう考える」
 水神エアが尋ねると、太陽神シャマシュは苦しそうな顔をした。神々の間では、シャマシュは、ギルガメシュの指導役として見られている。
 「指導する――それしかない」
 太陽神シャマシュは、日の当たる場所にしか現れない。日の当たらない場所は苦手だ。
 「普段から日常に倦んでいる様子がある。それが爛れて腐ってきたのではないか」
 月神シンが指摘した。逆に月神シンは、日の当たらない場所、夜が大好きだ。
 「そうかもしれない。だが結果として民を苦しめている。何か方策はないか」
 水神エアは言った。
 「なぜ黒頭共を慮る必要がある。奴らは地に増え過ぎた。そろそろ間引く頃だ」
 大気神エンリルは、我慢がならぬ様子でそう言った。
 「我々の仕事の肩代わりに造ったのに、言う事を聞かない者が多過ぎる。失敗作だ」
 そして第何次人類撲滅計画と書かれた粘土板を持ち出し、次の洪水について語り出した。
 「計画の進捗について話したい――よいか」
 「それは議題ではない。控えてもらおう」
 天空神アヌが制止した。大気神エンリルは沈黙した。
 「話を戻すが、ギルガメシュには問題がある。権利はあっても、行使に問題があれば、結果として、民の信を失う。ひいては我々神々の評判が落ちる」
 「――黒頭共の機嫌を伺うと言うのか。我々は神だぞ」
 大気神エンリルは最早黙ってはいられない様子だった。
 「その神も、手が回らぬから、泥から人間を造ったのではないか」
 水神エアが指摘した。すると天空神アヌも言った。
 「大いなる天に神々だけがいればよいという時代は終わった。これから先は、地上をどう経営するかが問題だ。地上から人間を一掃すれば問題もなくなるが、この世界の発展もなくなる。人の手を借りて、天と地を結ぶために、我々はギルガメシュを送り込んだのではないのか」
 天空神アヌは一度、言葉を切ると、再び言った。
 「話が飛躍した――具体的にどうすればよい」
 月神シンが言った。
 「ギルガメシュの行動を見ていると、孤独を感じる。先日、王宮にメメムという子供が来て、ギルガメシュを寂しそうだと言っていたが、それは当たっている。ギルガメシュに必要なのは、友だと思う。だから、マシュダの件でも、あれ程こだわったのだと思う」
 神々の間で沈黙が訪れた。
 「友か――」
 水神エアは言った。
 「――しかし今更ギルガメシュの友に誰がなれる」
 「いなければ作ればよい――」
 大気神エンリルが言った。神々はエンリルを見た。
 「――泥から丹精込めて作れば、神々に匹敵する力を持つ者は造れる」
 「いい考えだ」
 天空神アヌは賛意を示した。
 「では誰が造る」
 水神エアがそう言うと、天空神アヌは呼んだ。
 「創造の女神アルルよ。ここに」
 軽妙な旋律と共に、白い密着着を纏った、銀髪碧眼の見目涼やかな幼女が現れた。いちごの香りが漂い、桃色の輝きが放射された。ちょっと生意気そうな表情を浮かべているが、外見とは別に、精神年齢が高いからだろう。好奇心が強そうな眼差しをしている。
 「アルルはここに」
 女神アルルは宣言すると、七柱の大神の前に進み出た。
 「アルルよ。頼みがある。ギルガメシュの友を作ってくれ」
 天空神アヌがそう言うと、女神アルルは驚いた。突然呼ばれて、そんな仕事を頼まれると思ってもみなかったからだ。無論、天空神アヌは、順を追って説明した。だがそれは女神アルルでも難しかった。ただ造ればよい訳ではない。
 「大神アヌよ、確かにアルルは、泥から神々に匹敵する力を持つ者は造れるかも知れないが、それがギルガメシュの友になるかどうかは分からない」
 「それはそうだが、まずギルガメシュと対等な者でないと、友にもなれない」
 天空神アヌは指摘した。すると女神アルルは言った。
 「分かりました。造るだけなら可能です。ギルガメシュの力を教えて下さい」
 太陽神シャマシュが、知り得る限りのギルガメシュの力を教えた。
 「――そんなに強いのですか。ちょっと難しいですね」
 女神アルルは、困ってしまった。能力に全振りすれば、力は上がるが、知恵は下がる。ギルガメシュの力に並ぶためには、そこら辺の調整が利かない。初期状態にかなり問題がありそうな気がする。言ってみれば、人の姿をした獣の様な存在が出来上がるかも知れない。
 「大神アヌよ、それでよいなら作りますが、よいですか」
 「構わない。頼む」
 内心、女神アルルは迷惑な話だと思ったが、とりあえず、ギルガメシュの友を造る事にした。それはここでは出来ないので、一度神々の会議から退出する事にした。

           ***

 女神アルルは神殿に帰ると、ギルガメシュの友を造るに当たって、まずできる事とできない事で分けた。ギルガメシュに匹敵する能力の持ち主は造れる。だがそれは神々の力で増幅された能力に限られる。その能力の使い方、智慧までは授けられない。
 後天的な学習能力はあるが、知識や情報は何も与えられなかった。だから人の形をしているが、本能のままに動く獣となる。なまじ能力が高いので、危険な存在だ。野人と言ってよい。これでは、ギルガメシュの友になれるのかどうか分からない。
 だが少なくとも、対等の力を持たねば、ギルガメシュは興味を持たないという事情もあるので、能力に全振りする事は仕方ないとした。しかしこのままウルクに入れるのは危険なので、近くの荒野に配置する事にした。どうなるか分からないが、いずれ二人は接触するだろう。
 そうと決まれば、女神アルルは、泥の選定から始めた。やはりユーフラテス川の泥がよいだろう。泥の質といい、水の質といい申し分がない。次に木材で人型を造った。そして女神アルルは顔を顰めながら、泥に牛糞と藁を混ぜ、水で溶いて、木材の型に流し込んだ。
 神アルルは、泥が乾くのを待って、日干しにした。数日後、泥から木の型を抜いて、泥人形が出来上がった。素体というべきものだが、まだ何も手は加えていない。ここまでなら人間でもできるが、ここから先は創造の女神アルルにしかできない。
 ――ズィを吹き込む。わらわのズィをな。
 女神アルルは、桃色の後光を全力で放射し、自らのズィを両手に集めて、泥人形に押し込めた。凝縮された虹色の光が集まり、玉となって泥人形に入った。すると左胸の辺りにズィの鼓動が始まり、泥人形は見る見るうちに生きる人体へと変貌した。
 額に玉の様な汗を流しながら、女神アルルは作業を止めた。
 ――しまった。またこの男の顔にしてしまった。
 ズィを吹き込む時、面倒なのが、具体的なイメージまで投影しないと、生きた人体が完成しない事だった。要件が固まったら、一気に詳細まで仕上げないといけないのだ。そうなると、過去に使ったイメージを使い回しになりがちだ。
 ――まぁ、でも出来は過去最高だろう。これ程の力を持った人間はいない。
 女神アルルは、男の顔を見ながら満足した。自分の好みで造った顔だが、悪くない。どうせ造るなら、自分の趣向で構わないだろう。製作者の特権だ。だがよく見ると、問題がある事に気が付いた。全力で創造したため、余ったズィが体内を駆け巡り、暴走していた。
 恐らく目覚めたら、体内で暴走するズィに突き動かされて、獣の様な衝動に駆られて野山を駆け巡るだろう。だが余ったズィを体内から吐き出せば、問題はなくなる。むしろ冷静になって、人に近づくだろう。そうなれば、後天的な学習能力も顕在化する。
 ――まぁ、よいか。仕方ないだろう。それよりも名だな。何としよう。
 女神アルルは、何となく水神エアを思い出した。ギルガメシュの友ではないが、ギルガメシュの事を考えている。そうだ。彼から名を取って、エンキドゥとしよう。
 ――よし、お前の名はエンキドゥ。荒野を奔る野人だ。
 女神アルルは、両手を天に掲げると、エンキドゥをこの世界に送り出した。

           ***

 ギルガメシュは朝、眼を覚ますと、夢を見ていた事に気が付いた。星が自分に降ってくる夢で、不吉な夢に思えた。母ニンスンに相談すると、友の到来と夢を解いた。ギルガメシュは半信半疑だった。だが星は、神性を顕すディンギルの印でもある――吉凶か。
 王宮に行くと、奇妙な噂が流れていた。周壁持つウルクの外で、野人を見かけると言う。最初は何かの見間違いと思われたが、目撃者も多く、事実だった。狼などを率いて、武装した商隊さえ襲った。とてつもない力を持ち、男は殺し、女は犯した。ウルクの民は恐怖に陥った。
 こうなると、ウルクのエンシであるギルガメシュの耳に入るのは、時間の問題だった。民からの陳情があり、荒野の野人を退治して欲しいと請願があった。だがここ最近、不愉快な出来事が度重なり、ギルガメシュの反応は鈍かった。
 「――男は殺し、女は犯す。何も驚く事はない。世の常ではないか」
 ギルガメシュが、穏やかに微笑みさえ浮かべながらそう言うと、陳情に来た商人は沈黙した。
 「エンシよ。それではメが成り立たぬ」
 ウルクの七人の長老の一人がそう言うと、臣下達も賛意を示す気配を見せた。
 「壁の外の問題だ」
 ギルガメシュが涼し気にそう答えると、長老は指摘した。
 「エンシとしてウルクの安全を守る義務がある」
 実際、野人が現れてから、ウルクに入って来る物資の量が減った。安全が確保できていないので、商人の足が遠ざかっているのだ。このままでは食の問題にも繋がる。
 「ウルクの外の問題だ。我は動かん」
 「ルガルとしての責務はどうなりますか」
 別の長老が指摘すると、ギルガメシュは一喝した。
 「くどい。我は動かん。まずは汝らで解決してみせろ。できぬなら我が動く」
 流石に長老達も黙ったが、さりとて妙案がある訳ではない。最初からギルガメシュに頼り切りで、丸投げしていたのだ。年寄り共は、口はよく回るが、頭は全然回らない。
 「頭を使え。頭を」
 ギルガメシュは叱咤した。単純に武力で勝てぬ相手なら、頭を使うしかない。だが臣下達は、互いに顔を見合わせるだけで、誰も何も言わなかった。陳情に来た商人は困り果てた。
 「失望したか。気に食わぬなら、大いなる天に祈るのだな。苦情くらい聞いてくれよう」
 先般、シャマシュを通じて、ギルガメシュに対する厳しい注意指導があった。神々は、ウルクの民からギルガメシュの苦情を聞き入れ、問題視した様だった。
 「エンシよ。どうかその力で荒野の野人を鎮め給え」
 それでも商人は平伏して再度、お願いをして来た。ギルガメシュは不快だった。
 「――我に手本を見せろと言うのか」
 互いに顔を見合わせるだけの臣下達に問うた。すると長老の一人が答えた。
 「出来る事なら、お願い致します。ウルクのエンシにして、ルガルよ」
 ギルガメシュは嘆息した。王宮には、商売ができなくなった商人からの陳情が、絶えなくなっている。護衛の兵を付けても、蹴散らされるらしい。凡そ人間では敵わない強さとも聞いている。だからウルクの民は、ギルガメシュの出馬を望んでいるらしい。
 ――戦うのは容易い。だが智慧を示さなければならん。
 この野人、男は殺すが、女は殺さない。ならば女を使って、この荒野の野人を制する事ができるのではないか。その道の女を当ててやれば、存外治まるのではないか。野人という言うくらいなのだから、本能で動いている。ギルガメシュは一計を案じた。
 「神殿娼婦シャムハトをここに」
 ギルガメシュがそう命じると、周囲の臣下達は驚き、エンシの真意を測りかねた。
 
 数日後、王宮に神殿娼婦シャムハトが到着した。
 この時代、神殿の巫女と娼婦は未分化で、兼業されており、公務員の様な扱いで、神殿が管理していた。その名も神殿娼婦という。神殿に奉納に来た男性に、性的奉仕をする役割を持っていたと言われている。時には神殿から宿や家に派遣される事もあった。
 そしてシャムハトは、当代一の神殿娼婦だった。派遣する神殿も手配に時間が掛かった。実際、すぐに臣下が神殿に問い合わせたのだが、シャムハトは数日先まで予約が一杯で、ウルクのエンシからの指名でも、数日待たされる事になった。
 「シャムハト、ウルクのエンシ、ギルガメシュの許に推参」
 王宮の衛兵がそう宣言すると、謁見の間に、ほぼ全裸で褐色の美女が、蒼いサンダルを履いてやって来た。その豊かな乳房は、隠そうともしていない。むしろ誇らしげに天を向き、果実の様に揺れていた。そして水の様に濡れた黒くて美しい髪を靡かせ、ラピスラズリの首飾り、耳飾り、腕輪、足輪を身に着け、白くて薄いカウナケスを腰に巻いていた。
 ギルガメシュは顔を顰めた。好みの女ではない。ギルガメシュは、初心な娘が好きだった。こういう玄人の女は、好きではない。だが今回相手をするのは、荒野の野人だ。お誂え向きの相手だろう。女を犯す野人に、玄人の娼婦をぶつけるのだ。さぞかし見物だろう。
 「シャムハトよ。ウルクのエンシが命じる。そなたの技で以って、荒野の野人を鎮めよ」
 シャムハトは膝を折り、頭を下げて平伏した。その姿は酷く煽情的で、周囲の男達の劣情を誘った。その場に存在しているだけで、男達を誘惑し、劣情に誘っていた。ギルガメシュは嗤った。こんな女も世の中にはいるのか。可笑しなものだ。
 「荒野の野人を鎮めて参ります」
 神殿娼婦シャムハトは、恐れもなく言った。その表情は自信に満ち溢れている。噂ぐらいは聞いている事だろう。剛毅な事だ。あるいは、自分に靡かぬ男はいないと、自惚れているのかも知れない。これだから玄人の女は好きになれない。
 「その方、自信がある様だが、見事達成したら褒美を取らす。何でも言え」
 ギルガメシュがそう言うと、シャムハトは答えた。
 「野人を王宮に連れて参りましょう」
 神殿娼婦シャムハトは妖艶に微笑んで、頷いてさえみせた。
 
 周壁持つウルクの外は暑かった。神殿娼婦シャムハトは、白くて薄い布を頭から纏い、日除けをしながら、独り歩いた。いくら薄着とは言え、シャマシュは刺す様に痛い。気温もぐんぐん上がっていた。万が一に備えて、護衛の兵も連れて来たが、離れて歩いていた。
 ――シャマシュが沈んで、シンが出てからにすればよかった。
 恐らく夜にならないと、荒野の野人も出ないだろう。だがウルクの近くにはいないだろうから、多少歩いて探さないといけないかもしれない。いっその事、商隊に紛れ込んで、襲われるのを待った方が賢かったかもしれない。いずれにしても、歩くしかない。
 後ろを振り返ると、荷物を持った衛兵達がいた。その殆どがシャムハトの持ち物だ。あとは水とか食料を持っている。ユーフラテス川が近いので、さほど水は携行していない。だがこの暑さは美容の敵だった。これでは本番前に倒れてしまう。
 「シャマシュを避ける」
 シャムハトは宣言した。どこか木蔭の水場を探して、そこで夕方まで待とうと思った。衛兵と合流すると、今後の方針を話し合い、ユーフラテス川の方角に向かった。まだ距離的にはウルクから徒歩で数時間しか離れていない。荒野の向こうに城砦都市が見えた。
 遠くを見ると、荒野が蜃気楼の様に揺れていた。何かがゆらゆらしている。目を凝らすと、何かが近づいて来た。土煙が上がっている。獣か――いや、人か。シャムハトは腰を浮かすと、衛兵に声を掛けた。衛兵も立ち上がって、長槍を構えた。
 果たして、件の野人は来た。腰にライオンの毛皮を巻き、黒い長髪を垂らした大男だ。逞しい筋肉を持ち、全身から溢れんばかりの精がある。眼はギラつき、口元から鋭い犬歯が覗いている。両手の爪は伸び、相手を引き裂かんばかりに構えている。周囲には狼達がいた。
 ――これが野人。
 眼を見開いた。これまでの経験で、男を見れば大体分かる。だがこんな男は見た事がない。溜めている精が測れない。こんな事は初めてだった。一体どうやったら、こんなに精をつける事ができるのか。だが相手にとって不足はない。シャムハトは、妖艶な笑みを浮かべた。
 「そこの逞しい方、わらわと共に夜を愛でないか」
 誘いの言葉なんて必要なかった。野人はシャムハトに飛び掛かって来た。長槍を持った衛兵に、目で合図を送った。衛兵達は、打ち合わせ通り、狼達の相手をして、見事追い払った。そして荷物を下ろすと、木蔭の下でテントを設営し始めた。
 すでに前戯は始まっていたが、シャムハトは、何とか野人を簡易テントに押し込んだ。衛兵達は、水や食料、衣類などを近くに置くと、その場を離れた。そして離れた場所から交代で監視した。シャムハトは、どちらが先に精根尽き果てるか、勝負だと思った。
 ――夜は長い。存分に楽しもうぞ。
 荒野の夕暮は終わりが近づき、シンが薄っすらと、東の空にその姿を見せ始めた。
 それから七日七晩交わった。衛兵達は初日、下卑た笑みを浮かべながら様子を眺めていた。だが二日目から心配になり、三日には驚き、四日目には呆れてしまった。五日目以降には無感情になり、監視を怠った。だが七日目の夜、動きが止まった。
 茫然とした野人が荒野に立っていた。野人はシャムハトにたっぷり精を吐き出し、正気に立ち返った。その眼差しには、驚きと理性の輝きが宿っていた。傍らにはシャムハトが、あたかも母親の様に立ち、そっと白い衣を掛けてやった。野人は荒野で叫んだ。
 「俺の名はエンキドゥ」
 それしか書き込まれていなかった。後は無だった。

           ***

 その日、ギルガメシュは、臣下から報告を聞きながら、政務をしていた。すると突然、衛兵が飛び込んで来た。神殿娼婦シャムハトが荒野の野人を連れて帰還したと言う。ギルガメシュは立ち上がって、政務を中断し、直ちに二人を呼んだ。
 ――上手く行ったか。
 ギルガメシュは玉座に身を移すと、二人を謁見した。
 「シャムハトよ、よくやった。後で褒美を取らす――してその方の名は」
 神殿娼婦は一礼して下がると、白い衣を巻いた大男が現れた。
 「俺はエンキドゥ。強者を求めている」
 ネコ科の猛獣の様な眼差しで、刺す様な眼光を放っている。人の心を射る眼だ。だがそこに一切の疚しさはなく、どこまでも真っ直ぐで、真摯な瞳があった。それなりに己に矜持がないと、耐えられる視線でなない。経験がないまま、強大な力に目覚めたせいかも知れない。
 ――我を前にしてこの不遜。大いなる天に連なる者か。
 黒い髪をライオンの鬣の様に伸ばし、褐色の巨体を白い衣で覆い、腰にライオンの毛皮を巻いている。髪や髭は黒いが、毛並みに光沢があり、全体として獣じみた男だ。荒野の野人と呼ばれたのも頷ける。黒いライオンと呼んだ方がいいかも知れない。
 「――エンキドゥよ。なぜ強者を求める」
 ギルガメシュが問うと、エンキドゥは答えた。
 「分からぬ――分からぬが故、求める」
 知的ではないが、好感が持てる答え方だった。ギルガメシュは気を良くした。
 「――我がその強者だったらどうする」
 「戦うまで」
 その簡潔な答えにギルガメシュは、口許を歪めると、羽織っていた白い衣を投げ捨てた。そして玉座から降りると、中庭を指差した。
 「――あそこで力比べをしよう」
 臣下達はざわめいた。だがギルガメシュとエンキドゥは、歩いて行った。シャムハトはただ微笑んでいる。果たして、二人は中庭に立った。お互い無手だ。
 「遠慮は要らぬ――来い」
 ギルガメシュは、庭の真ん中に立つとそう宣言した。次の瞬間、重たい一撃が、鳩尾にめり込んだ。エンキドゥの拳だ。ギルガメシュは、一瞬身体を浮かしたが、すぐに地に足を着けると、両腕でエンキドゥの背中を抱えて、後ろに投げ飛ばした。
 エンキドゥは地面に転がったが、すぐに起き上がらず、仰向けになったままだった。ギルガメシュはその様子を見ていたが、不意に笑い出した。高笑いは暫く続き、中庭に集まった臣下達は、互いに顔を見合わせた。シャムハトは、妖艶な笑みを浮かべて見守っている。
 「――大した力だな。力なら上かも知れぬ」
 ギルガメシュは、腹を撫でながら、そう言った。ここまで重たい一撃は、喰らった事がない。軽く身を浮かしていなければ、確実に気絶していた。
 「今まで投げられた事はない――何だ。今の技は」
 エンキドゥはゆっくり起き上がった。投げ技の一種だ。ギルガメシュは、人間が行使し得る全ての技を習得している。これも神性の高さがなせる業で、時代を超えた力だ。
 「油断するなよ。我に不可能な技はない」
 ギルガメシュは鷹揚にそう言った。だが次の瞬間、右の拳が頬にめり込んだ。咄嗟に頭を反らしていなければ、顎が砕けていた。ギルガメシュはよろめいたが、膝は突かなかった。矜持がある。己の神性の高さがそれを許さない。こんな事で膝を屈しては名折れだ。
 「お前、強い。二度殴ったのに、倒れない」
 エンキドゥは淡々とそう言った。
 ――こやつ、力も凄いが、速さも段違いだ。
 初めて、敵と呼べる者と出会った。正直、ここまで自分に迫る強さを持つ者に、出会った事はない。ズィが高鳴り、精神が高揚する。これは何だ。興奮しているのか。
 ――次で決める。
 ギルガメシュは跳躍すると、渾身の一撃で、回し蹴りを見舞った。エンキドゥは腕でガードしたが、吹っ飛んで行った。中庭の茂みに突っ込み、近くにいた臣下を纏めてなぎ倒した。
 今のは本気だった。これで斃せぬなら、間違いなく大いなる天に連なる者だ。
 「痛い。今のは効いた」
 エンキドゥは茂みから身を起こすと、額から流れる血を拭った。ギルガメシュは、大したダメージを与えていない事を見て取った。何て頑丈な男だ。呆れる。本当に人間か。
 「猛獣も斃す技だぞ」
 「――あいつら、弱い」
 エンキドゥはそう言うと、一瞬で間を詰めた。とんでもない速さだ。ギルガメシュは、最初の一撃は躱したが、二撃目、三撃目の拳は腕でガードした。
 ――そこだ。
 エンキドゥが右の正拳を放った処で、ギルガメシュは懐に飛び込んだ。そして右腕を掴んで、逆関節の一本背負いを決めた。骨が折れる鈍い音がして、エンキドゥを地面に叩きつけたが、直前に首に足が絡まり、ギルガメシュも投げられた。
 素早く解いて起き上ったが、首筋を痛めていた。かなり不味い。戦うには支障がある。だがそれは向こうも同じだ。利き腕を使えなくしてやった。どちらが不利か分からない。
 「動かない。腕が」
 エンキドゥは淡々と言った。単に事実を確認しただけという感じだ。痛みで戦意を喪失している訳ではない。つまり、この程度では止まらないという事だ。ただの獣であれば、負傷すれば逃げるが、この男は逃げない。紛れもなく人間 だ。
 「――続けよう」
 ギルガメシュは、首筋を押さえながら言った。なぜ投げられながら、足を首に絡められたのか分からないが、エンキドゥの動きは予想を超えている。要注意だ。恐らく本能レベルで身体が動いて、そうしたのだろう。理屈が分かってそうしている感じではない。
 「行く」
 エンキドゥは突如、跳躍すると、回し蹴りを放って来た。ギルガメシュは危うくガードしたが、著しく後ろに後退した。真似された。一度見ただけで、寸分違わぬ技を放ってきた。この学習能力は尋常ではない。明らかに、エンキドゥも高い神性を持っている。
 ――面白い。面白いぞ。
 何時しかギルガメシュは叫んでいた。
 
 気が付くと、腕長きシャマシュが中庭を赤く染めていた。あれから半日掛けて、二人は死闘を繰り広げた。ギルガメシュもエンキドゥも、顔の形が変わる程、殴り合い、身体のあちこちを骨折していた。最早、立っているのが不思議な程だ。それでも戦いは終わらない。
 臣下達は、何度か止めに入ろうとしたが、その度に、二人の戦いに巻き込まれて、弾き飛ばされた。いい加減止めないと、命に係わるが、止める手立てがなかった。そして何時しか、この戦いを見つめる神殿娼婦に、視線を注ぐ様になった。
 「止めて下さらぬか――このままでは斃れてしまう」
 七人いる長老の一人がそう頼み込むと、シャムハトは微笑んだ。
 「エンキドゥと七日七晩と戦った」
 長老は眼を剥いた。だがそれとこれは別だ。
 「このまま続けてよい訳ではない」
 神殿娼婦は、微笑みを絶やさず、長老を見た後、言った。
 「気が済むまでやれば、よいでしょう。男女のそれと同じく――」
 長老は困っていた。周りの臣下達もどうしてよいか分からず、右往左往している。
 「――分かりました。止めてみましょう――」
 こういう役回りは、神々ではないかと思いながら、シャムハトは、
 「――もうお止めなさい。シャマシュも立ち去ります。今日は終わりです」
 あたかも子供の遊びでも終わらせるかの様に、自然と二人の間に入った。ギルガメシュもエンキドゥも動きを止めて、神殿娼婦を見た。
 「今日は終わり。また明日」
 二人は顔を見合わせた。そして笑い出した。酷い顔だ。見た事がない。笑い出すと、止まらない。痛快だった。ギルガメシュは、初めて腹の底から笑った。このエンキドゥという男は侮れない。強さだけで言ったら、全くの互角だ。勝負が付かない。
 ――シャマシュよ。エアよ。この地に我と並ぶ強者がいたぞ。
 ギルガメシュは、その場に崩れる様に座り込むと、同じく倒れる様に尻もちをついたエンキドゥに、手を差し伸べた。
 「エンキドゥよ、我を強者と認めるか」
 その眼差しには、好奇の光があった。
 「――認める」
 ギルガメシュは確認した。
 「我らは対等か」
 「――対等だ」
 確信した。エンキドゥは神が遣わした者だ。間違いない。
 「ならば今日から我らは友だ。我が友エンキドゥよ」
 エンキドゥは頷いた。ギルガメシュはそれを見届けると倒れた。流石に限界だった。眠い。だがこれ程心地よい感覚は久しぶりだ。心が晴れるとはこの事か。ギルガメシュは、心の裡で、太陽神シャマシュと水神エアが、祝辞を述べるのを聞いた気がした。

                          第二の粘土板 了

『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第三の粘土板 旅立ち 3/12話

 

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