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[書評] 気の遠くなるほど長い歴史を扱う史書に、時間観や地球観を揺さぶられる

sydneyminato『あなたの知らない竹内文献 -1-』(上記大奧研究會、2017)

sydneyminato『あなたの知らない竹内文献 -1-』(2017)

気の遠くなるほど長い歴史を扱う史書に、時間観や地球観を揺さぶられる

太古の歴史を伝える、記紀より古い古文書。皇祖皇太神宮によると、〈日本の天皇(スメラミコト)の祖先が地球に降り立ったころからの、世界最古の歴史を記録した〉古文書という。

ところが、あまりに桁違いの時間を扱うので、本書の著者であるシドニー浜(みなと)氏(皇祖皇太神宮の竹内文献研究員)でさえ、多少のずれとしてでも受入れられないほどの長さと見る。

いったいどれくらい長い時間なのかというと、『竹内文献』の写本では、宇宙の年数が3,000億年を超えるものとして示されているという。膨張宇宙論(Big Bang 理論)で宇宙開始時が今から138億年前とされていることと比較すると、途方もない数字である。

さしあたり、『竹内文献』は〈神話的時間〉を扱うものと捉えておくくらいしか、できることはなさそうだ。

ともあれ、それはそれとして、本書はめっぽうおもしろい。学術的に資料の扱いに厳密性を追求しつつ、『竹内文献』に書かれている内容を丁寧に解きほぐしている。

『竹内文献』にはいろいろな側面からのアプローチが可能と思うが、本書にイエスの来日に関る同文献の記述が資料として掲載されているので、その原文と、氏による現代語訳とを参考までに、引用しておきたい。

聖人来日記録

〈イエス 神倭朝第十一代、活目入彦五十狭芽天皇(垂仁天皇)の時代[BC29年~AD70年](磔は弟イスキリが身替わりになり、青森県戸来にて百八歳迄生きた)〉

神倭朝(かむやまとちょう)とは、神武天皇以来の皇朝に対する『竹内文献』の呼び方。

多くの書で、『竹内文献』がイエスの弟を「イスキリ」と書いているとしているが、本書の著者によると、「弟イスキリ」は〈弟のキリスト〉という意味に解釈すべきであり、「イスキリ」や「イスキリス」は「イエスキリスト」を指すと取らねば意味の通らない箇所があるという。そのような箇所は、以下の「鳥谷幡山公開による原文」に出てくる。つまり、「イスキリ」などという名前はないというのが著者の立場である。鳥谷幡山は、日本画家で、『日本に再臨せるイエス・キリスト』の著者。


鳥谷幡山公開による原文

(☆、△ …… 原文/■ …… シドニー浜氏による現代語訳)

☆(←六芒星)イスキリスクリスマス遺言天国の言葉にて文し
イスキリスクリスマス遺言日本の言葉で記す

△天国神倭十一代天皇即位二十九年シハツ月立三日アジチ国ユダヤカルバリの岡に難に合ふ汝が弟イスキリ汝ににかはりて三十三歳にて死す
■日本神倭11代(垂神)天皇即位29年12月3日アジア洲ユダヤカルバリの丘で難に遭う。私の弟イスキリは、私に代わって33歳で死ぬ。

△イスキリス王五日いみかいりて再立す
■イスキリス王は5日目に蘇って再臨する。

△八日曰くよげんす五色人よふ今より先の代千九百三十五年より天下土海とみだれ統一の天皇天国にある
■8日目に預言する。五色人(万国人)よ、今より先の代1935年目より、天下は泥の海と乱れる。統一の天皇は日本にある。

△汝が天国へかひる汝が天国へ来りて六十六年目汝が自身に造る像神宮へ納め祭る汝が霊お今より先の代必ず大神宮神主孫々の代祭り願ふ
■私は日本へ帰る。私が日本へ来てから66年目に私自身で造る像を神宮へ納め祭る。私の霊(魂)を今より先の代に必ず大神宮神主孫々の代まで祭ることを願う。

△神主武雄心親王へ遺言願ふて汝が自身に天国のことばにしてふみし皇祖皇太神宮へ納祭る
■神主武雄心親王へ遺言を願って、私自身が日本の言葉で記し、皇祖皇太神宮へ納め祭る。

△天国神倭十一代五十狭茅天皇即位三十三年ケサリ月籠六日天国チヂノクの八戸ヤレコ・トネコの水門松ヶ崎上り。イスキリとまる貝鞍の里に宿る
■日本神倭11代五十狭茅(垂神)天皇、即位33年2月26日、日本陸奥の八戸ヤレコ(軍人屯所)・トネコ(通訳官居所)の港、松ヶ崎へ上り。イスキリ泊る貝鞍の里(石堂村)に宿る。

△同天皇三十三年ウベコ月籠五日戸来宮参拝天日来劔バリ神山宮参拝眉ヶ平仁々榮ノ木にる、ハヤレ月籠六日迄天国神へ乞ひ願ふ居る
■五十狭茅(垂神)天皇即位33年4月25日に戸来宮を参拝し、天日来劔バリ神山宮を参拝し眉ヶ平仁々榮ノ木にいる、8月26日まで日本の神へ乞い願い居る。

△同十一代天皇三十四年ナヨナ月円一日天越根中日見日高見国高地御皇城宮平地神明宮赤池上宮皇祖皇太神宮別祖太神宮毎日守神三十三神ひ参拝神主武雄心親王より分霊お賜ふてくればの太平に住む
■五十狭茅(垂神)天皇即位34年9月11日に天越根中日見日高見国(越中)の高地御皇城宮(皇城山)平地神明宮赤池上宮皇祖皇太神宮(内宮)別祖太神宮(外宮)毎日守神三十三神へ参拝神主武雄心親王より分霊をいただき呉羽の太平に住む。

△天国の言ば文字お習ふ十来太郎天空と云ふ
■日本の言葉、文字を習う十来太郎天空という。

△同十一代天皇即位三十九年ウベコ月より天国全巡廻り不老石南を食す
■同11代(垂神)天皇即位39年4月より日本全国を廻り不老の石南を食べる。

△同十一代天皇即位四十八年サナイ月立五日天皇へ参朝拝礼す詔り賜ふ道路奥戸来に住む
■同11代(垂神)天皇即位48年5月5日天皇へ参朝拝礼する。詔りいただき陸奥戸来に住む。

△神倭十二代大足彦忍代別天皇即位九年サナイ月立一日より八日迄天越根日見日高見国皇祖皇太神宮別祖太神宮へ参拝籠る武雄心親王に拝面願ふて☆(←六芒星)イスキリス汝が遺言お願ふ汝が父母の骨像お造り汝が霊とし太神宮へ納祭りお願ふ
■神倭12代大足彦忍代別(景行)天皇即位9年5月1日より8日まで天越根日見日高見国皇祖皇太神宮別祖太神宮へ参拝籠る。武雄心親王に拝面願って☆イスキリス私が遺言を願う。私が父母の骨像を造り、私が霊(魂)とし太神宮へ納祭りを願う。

△神主自身、天皇ひ言上げし詔賜ふて☆(←六芒星)イスキリス萬国五色人よう此太神宮へ納祭る汝が造り像お汝祭思ひよふ今より先ノ代必ず千九百三十五年より汝が像霊再生出顕る代なるぞ汝が名統来訪(←しめすへん)神太郎天空と云ふ
■神主自身、天皇へ言上げし詔いただいて☆イスキリス万国五色人よ、この太神宮へ納祭る、私が造った像を私が祭ると思えよ。今より先ノ代必ず1935年より私の像は霊(魂)が再生出顕る代となるぞ。私の名は統来訪神太郎天空という。

△五色人よふ唱ふべし神寶預り神主王殿代々必ず汝が霊神お祭願ふ神主と神躰おくと天皇及び国民あやぶし々々ぞ
■五色人(万国人)よ。唱えなさい神宝を預り神主王殿、代々必ず私が霊(魂)神を祭願う神主と御神体捨てて置くと天皇及び国民危うし危うし危うしだぞ。

△神主お五色人よふ拝礼せいよふ神寶神躰お祭りせいよふ天国天皇必ず五色人お統一するぞ心にそむくなよふ五色人よふ汝がイスクリスマス神見て居ぞ汝がイスクリスマス神祭り願ふぞ
■神主を五色人(万国人)よ、拝礼せよ。神宝神体を祭りせよ。日本の天皇必ず五色人(万国人)を統一するぞ。心に背くなよ。五色人(万国人)よ。私イスクリスマス神が見ているぞ。私イスクリスマス神の祭りを願うぞ。

△神主、武雄心親王ふべんに思ひ霊像お納祭ることに定め☆イスキリス喜びて造り像お天国へ来りて六十六年目に汝が自身像神宮ひ納祭し☆イスキリスクリスマス汝が霊ぞ
■神主、武雄心親王不憫に思い、霊(魂)像を納め祭ることに定め、☆イスキリス喜んで造り像を日本へ来てから66年目に私自身像神宮へ納祭し☆イスキリスクリスマス私の霊(魂)だぞ。

△道路奥戸来野月墓所館にイスキリクリスマス汝が體骸お葬る所
     門人
大平太郎坊  金笠太郎坊     
    にたのむ
■陸奥戸来野月(野付)墓所館にイスキリクリスマス、私が体骸を葬る所
     門人
大平太郎坊  金笠太郎坊
    に頼む

△劔がり太郎大天空坊汝が墓地お定め汝が霊がでたら五色人よふ必ずそむくなよふ、そむくなよふそむくとしぬるぞ
■劔がり太郎大天空坊、私が墓地を定め、私の霊(魂)が出たら五色人(万国人)よ、必ず背くなよ、背くなよ、背くと死ぬぞ。

△汝が身代りイスキリ十来墓頭髪耳お葬る
■私の身代り、イスキリ十来墓へ頭髪と耳を葬る。

△神倭十二代即位十一年ウベコ月立五日くれ六つ刻百六歳に神幽る戸来に神幽り統来に葬る十来塚と云ふ
■神倭12代(景行天皇)即位11年4月5日の午後6時に106歳で逝去。戸来に逝去し統来に葬る十来塚という。

△神主武雄心親王自身ふみし
■神主武雄心親王自身記す。

△神倭二十五代天皇小泊瀬稚鷦鷯尊即位二年サナイ月円九日詔し秘密勅使賜ふ
■神倭25代(武烈)天皇小泊瀬稚鷦鷯尊即位2年5月19日詔し秘密勅使をいただく。

△神主百二十三代目紀竹内真鳥謹記(印)
■神主123代目紀竹内真鳥謹記(印)

評者は、この「イスキリスクリスマス遺言」を読んで、『竹内文献』には確かに、イエスの来日のことが書かれていると思うのだが、保江邦夫氏の記述によれば、イエスが東北地方に来たのは20代の頃であり、その後、いったんパレスチナに戻り、磔刑後に(東北とは別の場所に)再来日したという。

その保江氏の記述とは違い、上記の『竹内文献』原文および現代語訳だと、どうも、イエスが東北地方に来て、108歳までそこで生きたかのように読めるように思われる。

[「鳥谷幡山公開による原文」中の「垂神」天皇は、垂仁天皇の誤記ではないかと思われる。もしそうだとすると、「汝が天国へかひる」(私は日本へ帰る)とは、磔刑(カルバリの岡の難)後のイエスの(再来日の意思をしめす)言葉と読める。そうであれば、保江氏の記述と完全に一致する。むしろ、そうなのではないかと思う。]

それと同様の情報(東北に来て108歳まで生きた)を、日本にイエスの足跡を調査に来たテンプル騎士団も持っていたのではないか。

このあたりの情報の混乱が存在することじたい、『竹内文献』の研究者には知られていないような気がする。

現時点で評者に言えるのは、イエスの(最初の来日、つまり)東北地方への来訪は、『竹内文献』に書かれている通り、垂仁天皇の時代であると思われるということだ。

#書評 #イエス #竹内文献

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