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[書評] The Lost Gospel

Simcha Jacobovici and Barrie Wilson, 𝑻𝒉𝒆 𝑳𝒐𝒔𝒕 𝑮𝒐𝒔𝒑𝒆𝒍 (Pegasus Books, 2014)

波乱含みのスリリングな解読を楽しむ

次の3つの媒体で読んだ。

①ハードカバー本
②電子書籍
③Audible

今回は、主として①について論ずるが、他の媒体についても簡単にふれる。③はすばらしい朗読(Bob Souer)だが、肝腎の対象写本部分の朗読がないのが惜しい。しかし、著者らの論説だけでも約13時間(標準速度)あり、たっぷり堪能できる。②はほぼハードカバーにある情報を収めるが、利点としては検索が容易なこと、脚注がハイパーリンクですぐ飛べる形なので本文に集中できること、ハイライトが容易であること等がある。

①は他にない特徴がある。まず、脚注がページ下部にある本来の形であり、濃密な読書ができる。注の量は膨大である。そして、注の部分にこそ、著者らの主張が濃厚に出ていることが多いので、実は本文に劣らず注は重要である。

なお、脚注の形式は分析対象である写本部分のみで、分析と解読を行なう著者らの本文の注は巻末に後注の形で収められている。この後注は全部で37ページある。

参考文献表は6ページと意外に少ないが、これは推奨図書を主に挙げてあるだけで、参照・引用した文献を網羅的に列挙すれば、博士論文なみに長いリストになるだろう。

カラー図版が電子書籍のように巻末でなく、本の中央部分におかれ、圧倒的迫力がある。特に、イスラエルのガリラヤにある教会のモザイク画(ヘリオス[ギリシア神話の太陽神]たるイエスとアルテミス[ギリシア神話の狩猟・貞潔の女神]たるマグダラのマリアの部分)は、ページいっぱいに印刷されており、すばらしい。電子書籍附属の図版を拡大してもこれほどの迫力はない。あとは、他にないものとして、索引と、著者らの近影がカバーについている。ハードカバー本は全部で444ページある。

本書が分析し解読をおこなう写本は次のものである。

British Library Manuscript Number 17,202

英国図書館(大英博物館[British Museum]の図書館部門が独立したもの)の所蔵する紀元570年頃の写本で、取得されたのは1847年11月11日。

大英博物館にこの写本を売ったのは、アレクサンドリア生れの Auguste Pacho というエジプト人。Pacho はこの写本を、6世紀創設の Macarios 修道院(カイロとアレクサンドリアの間の Nitrian Valley にある)から入手した。

17,202という番号がふられたこの写本は、シリア語で書かれている。本書が解読する文書の現存する最古の写本とされる。元はギリシア語の文書だったが、それをシリア語に訳したもの。ギリシア語の写本は、これより新しいものしか見つかっていない。さまざまな写本や伝承や諸言語への翻訳の問題は複雑で、それだけでたぶん一冊の本が書けるだろう。本書は日本語訳もある(『失われた福音——「ダ・ヴィンチ・コード」を裏付ける衝撃の暗号解読』、桜の花出版、2016)。

執筆年代についても同様だ。可能性としては、紀元前200年から紀元後200年まで400年の範囲が提唱されている。が、評者は、内的証拠から、紀元1世紀(半ばから後半)のある時期に書かれたのは間違いないと考える[上限はローマの政治家セヤヌス(セイヤヌス、セイアヌス)の没年である紀元31年(本書266頁)、下限はエルサレムとガリラヤに二次埋葬の習慣があったのが紀元前30年から紀元後70年の間ゆえ紀元後70年(本書340頁、注97)]。その時期でないと、ここに書かれた物語が意味をなさないからだ。が、この点については今後も議論が続くだろう。

本書の分析対象となる文書は、元のギリシア語の小さな本の題が 'of Aseneth' だったとある(本書20頁)。つまり、『アセナト(アセナテ)について』だ。旧約聖書の創世記41章45節および46章20節にヨセフ(ヨゼフ)の妻として登場する。一般にはこの文書は 'Joseph and Aseneth'(『ヨセフとアセナト』)または '(the story of) Joseph the Just and Aseneth his Wife'(『ただしい人ヨセフとその妻アセナト(の物語)』)の題で知られるので、ヨセフとアセナトについての話に見えるが、実際には中心はアセナトである。

その『ヨセフとアセナト』が Tony Burke 博士(カナダのヨーク大学)の英訳により、本書巻末に収められている。この話じたいをまず知りたいひとは、巻末の『ヨセフとアセナト』を読んでから本文を読むとよいだろう。前述のとおり、この『ヨセフとアセナト』翻訳部分には膨大な注釈がついており、そこに本書の著者らの見解が多くもりこまれているので、ここを読むだけで本書の主旨はほぼわかる。ただし、この注釈はやや細部にわたるので、大きな議論としてはやはり本文から読み始めるほうがよくわかる。

以上を前置きとして、この物語そのものについて述べよう。

ごく簡潔にまとめると、これはアセナトがヨセフと結婚する物語である。結婚するまでに悔改めの7日間が描かれ、その間、アセナトは水も食べ物もとらず、粗布を身にまとい、灰をかぶる。それを経て、ようやくアセナトはヨセフと結婚する。その際、蜜蜂の巣が重要な役割を果たす。その後、ファラオの息子がアセナトを奪おうとし、ヨセフと子らとを殺害する計画を立てるが、未然に防がれるという話である。

登場人物は創世記に出てくる人物たちであるが、このストーリーそのものは創世記にはない。

では、これは旧約聖書に関連する、あるいはその周辺の文書なのか。そうではないと、本書の著者らは考える。これは実は新約時代の文書であり、ある内容を伝えるために、ただしそのまま伝えると生命の危険までもがあるのでこのように偽装されているのであると。

となると、現代の読者にとっては、本書のような物語は、別のジャンルに見えてくるかもしれない。旧約に軸足を置く人びとは、かつてはこれをミドラシュ的に捉えた。つまり、旧約聖書に対する注釈と。

あるいは、アレゴリー(寓話、寓意物語)のように捉えるひともあるかもしれない。つまり、出てくる人や出来事がある考えや教訓を表す象徴となっている文学ジャンルである。その場合、登場人物や出来事は、それを伝えるために仮託されるもので、それ自体に意味があるというよりは、伝えられる内容のほうが重要である。

この受取り方を聖書の読みの流儀に当てはめると、予型論(typology)ということになろう。著者らはこの予型論をさかんに用いて、旧約の人物・出来事を新約の人物・出来事の原型(prototype)と捉える流儀について述べる。一つには、本写本が東方教会(シリア系キリスト教)の修道院で保管されてきたことがある。東方教会ではタイポロジはよく使われる。

本書の著者らは、さらに進めて、これを隠された意味を暗号化した文書であると考える。つまり、登場人物らは別の人物群を表し、物語は別のストーリー(イエスとマグダラのマリアの結婚および蜜蜂の巣が重要な役割を果たす婚姻の儀式)を表すと考えるのだ。本書全体を通じて、物語のすべての暗号解読ができているかはわからないが、少なくとも、登場人物については、本書は次のように対応すると結論づける。以下、隠された意味は矢印の先に記す。

・ヨセフ→イエス
・アセナト→マグダラのマリア
・ファラオ→ティベリウス
・ファラオの息子→セヤヌス

このほかにも周りの人物について詳細な推定がある。概して、紀元1世紀当時のローマ帝国の政治状況を表と裏から詳しく分析した上で、説得力のある議論を展開している。

率直に言って、著者らのこの解読/謎解きが当たっているのかはわからない。だが、その当否は別として、著者らが背景に共有しているある考え方の説明は、大変興味深く、参考になる。

それは、この文書が表すのは〈パウロ以前〉のキリスト教の姿だという考えである。つまり、パウロ以降になると、歴史上のイエスを中心とする教えは変質して、いわば別物になってしまうということである。

言うならば、歴史的なイエスの教えをパウロが乗っ取り、みずからが〈教祖〉として別種の体系をつくりあげ、それが基となってローマの国教としてのキリスト教が誕生するということだ。

この部分の考え方の説明が類書よりもとてもわかりやすい。

したがって、本書の結論に賛同するかどうかは別として、1世紀頃からキリスト教の公式教義が確定する頃(4世紀)までのダイナミクな動き、およびマグダラのマリアがその動きのなかでどのような役割を果たしたかに関心があるひとには、大いに参考になる本といえる。

本書の結論を述べる章のあとに添えられた「跋」(postscript)の章に、興味深いことが書いてある。Karen King という有名な宗教学者がバチカンが主催する学会で新発見の4世紀のパピルス文書について発表したのだ(10th International Congress of Coptic Studies, Rome, 18 September 2012)。

その文書は 'Gospel of Jesus's Wife' と呼ばれている。パピルスの第一面の4-5行めに次のように書かれていることからだ。

. . . Jesus said to them, My wife . . .
. . . she will be able to be my disciple . . .

(大意——イエスは彼ら[弟子たち]に言った、私の妻 . . . 彼女は私の弟子となることができる . . .)。ここで 'wife' と英訳されているコプト語が 'taàime' という語で、著者によると、'wife' の意味しかないという。これは 'The Gospel of Philip' における 'koinonos' の語が 'wife' とも 'companion' とも訳せることとは対照的だ。この 'taàime' の語の場合は一意的に'wife' の意味にさだまる。この「私の妻 . . . 彼女」は3行めの 'Mariam'(マリアム、マリア)をさすと考えられる。本書の著者はこれは〈十中八九ほとんど確実に 'Mary the Magdalene'〉のことであると指摘する(本書294頁)。

この「発見」はすさまじい批判の嵐をあび、それが公開されていたハーヴァード神学校のウェブページ[Harvard Divinity School, “The Gospel of Jesus’s Wife: A New Coptic Gospel Papyrus,” 2012, hds.harvard.edu/faculty-research/research-projects/the-gospel-of-jesuss-wife.]も現在では見ることができない(ただし魚拓を取っているサイトはある)。

上記の言葉が現れるパピルスの第一面の写真を掲げておこう。この写真は本書の図版にも収録されている。

この写真の4行めの右端から2語めの単語が 'taàime' である。その上の3行めの左端から2語めの単語が 'Mariam' である。

現在ではこの〈新発見〉(ほんらいなら西欧社会に対し途方もない起爆力がある)は〈捏造〉として葬り去られようとしているが、King が編纂した 'The Gospel of Mary of Magdala. Jesus and the First Woman Apostle' (2003) の内容とも整合性があるし、その真実性を疑う根拠はないと評者は考える。

#書評 #ヨセフ #アセナト

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