菊池寛「恩讐の彼方に」

青空文庫からも読むことができます

主人の妾であるお弓と慇懃を通じて、さらにその主人を殺すという武士として最悪の罪を犯した市九郎は罪悪感を抱いている。お弓は市九郎が主人を殺したその時から非常に強かに逃亡生活を企み、その後も自分の手は汚さぬまま、市九郎に殺人と強盗を繰り返させることで生活を送っている。この時点で市九郎とお弓の心情に大きな差異が見られる。


市九郎はその殺人・強盗に対する罪悪感に苛まれ、出家し、「鎖渡し」と呼ばれる一年に三、四人、多ければ十人もが死んでしまう梯を見て隧道(トンネル)の開鑿に力を注ぐ。筆者は、「ただ右の腕のみを、凶器のごとくに振っていた。市九郎にとって、右の腕を振る事のみが、彼の宗教的生活のすべてになってしまった。」という箇所から、隧道開鑿は民衆を救うためとよりも、他者のために健気に危険な作業を行うことで何者かに許され、自らが救われるためにしているのではないかと考えた。結果的にこの行為によって、主の息子である実之助に許されたのであるが、この時点では実之助に許されようとしている訳ではない。だれか特定の人物というよりは、本人も意識していない「何者か」に許されようとしているのだ。この行為は、キリスト教の贖罪(自らを犠牲にして罪を償う行為)に似ているが、市之助は出家した仏教徒であり、仏教では「許されることにより救われる」というよりも「罪を罪と意識すること」を重要視されるため、彼の罪は許されることはない。このことがどうも皮肉に見えてしまうのは筆者の卑屈な性格のせいだろうか。


市九郎と実之助は、許し許される関係となり、熱い抱擁を交わす。果たして、この抱擁によって一件落着、で良いのだろうか。市九郎は罪を償い、実之助が罪を許し、そしてお弓は。お弓はどうなったのだろうか。市之助の殺人をきっかけに歪んでしまい、市之助に殺人や強盗を唆し続けたお弓についての描写があからさまに欠けているのだ。男性同士の群像劇の陰には、捨てられた女が居たことを、たとえ市之助が忘れてしまっても、我々読者は忘れてはならない。


最後に、筆者はこの作品に芥川龍之介の「羅生門」と坂口安吾の「桜の森の満開の下」との共通点を見出した。罪の意識が麻痺していく市之助の姿は「羅生門」の下人にも見え、男性に平気で殺人をさせるお弓の姿は「桜の森の満開の下」の女にも見える。これは筆者が何者かによる共感を得たいために付け加えた明らかな蛇足である。どこからかこのnoteに辿り着いた読者の方々は、どうか忘れてくれ。

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