【米大統領列伝】第四回 ジェームズ・マディソン大統領(前編)
はじめに
予告通り、今回から第四代米国大統領ジェームズ・マディソンの回になります。
生い立ち
生まれから幼少期まで
1751年3月16日に12人兄弟の長男として、バージニア州キング・ジョージ郡ポートコンウェイでジェームズ・マディソンは誕生しました。父親(ジェームズ・マディソン・シニア)はタバコプランテーションのオーナーであり、政治家としても活躍しており、独立戦争でも大佐として戦うなどの実績を挙げる人物でした。母親は有名なプランテーションオーナーとタバコ商人を生業とした父親の娘で、タバコプランテーションを介した出会いでした。ジェームズ・マディソンは幼少期をプランテーションで過ごし、両親の影響を受けたとされます。
少年時代
11歳から16歳までの間、マディソンを教育していたのはドナルド・ロバートソン牧師であり、数学、地理および現代と古典の言語を学びました。ラテン語を流暢に話すレベルまで勉強熱心だったことで知られています。16歳から牧師チェンジしたマディソンはトマス・マーティン牧師とともに大学に入る為の勉強に勤しみました。マディソンは健康面で気候に影響されやすかった為、多くのバージニア人が目指すウィリアム・アンド・メアリー大学ではなく、当時のニュージャージー大学(現:プリンストン大学)に入学します。大学では、ラテン語、古代ギリシャ語、科学、地理学、数学、修辞学、哲学を学びました。卒業後もジョン・ウィザースプーン学長とともにヘブライ語と政治学を学んだ後に帰りました。ヘブライ語を制覇したマディソンですが、時間の合間にやっていた法律の勉強では法廷弁護士になるまでには至りませんでした。
ゴールインするジェームズ・マディソン(43歳)
ドリー・マディソンの肖像
43歳の時、マディソンはウェストバージニアの未亡人のドリー・ペイン・トッドと結婚をしました。二人の出会いは社交界でのアロン・バーの薦めで紹介されたと言われてます。マディソンがキリスト教クェーカー派でなかった為、ドリーは宗教派閥を乗り換える形(事実上の追放)になりましたが、年齢差17歳もありましたが、ドリーと結ばれたマディソンの人生に色を与え、二人の結束も固く、良き妻だったとされます。
注:ドリー・マディソンがファースト・レディーという呼称を使われる初の大統領婦人です。
独立戦争での立ち位置
マディソンは独立戦争前は弁護士を経て、バージニア邦議会議員になり、トマス・ジェファーソンと師弟関係に近い仲だったと言われてます。マディソンの功績として、政治や教育から宗教的な要素を分ける方案を通し、イングランド国教会を非国教化したことです。更に、マディソンはバージニア案(バージニア・プラン)と呼ばれる合衆国憲法の基礎となる案を作成したことから合衆国憲法の父と呼ばれることもあります。現在まで続く三権分立の原則を打ち立てた功績は後世でのマディソンの存在をより大きなものにしたと言えると思います。合衆国憲法の草案作成が批准される為の努力として、ザ・フェデラリストでの寄稿も積極的に行い、植民地から国への独立過程で大きな功績を上げてます。他にも、米国版権利の章典を出したり、法律面での功績は大きいですが、戦場の戦闘には参加することはありませんでした。
政府に関する考え方
元々、権力の分散を念頭に入れた強制力を一極集中させない方向性でマディソンは考えを持っていました。しかし、大統領就任後にその考え方は少しづつ変わり、有事の際に権力が必要な場合があると悔いることになりました。その経緯の詳しいことは時系列が1812年の米英戦争に追いついたら、一緒に解説します。
奴隷制に関する考え
マディソンの育ったプランテーションは100人余りの奴隷が労働力として使われていた為、幼少期から奴隷のいる生活をし、父親が死去した際も奴隷を相続しました。
注:何度でも強調しますが、この時代の奴隷は人ではなく、所有物(property)の扱いですので、奴隷も相続物の対象になります。
奴隷政策に関しては、ジェファーソン同様に海外からの新規の奴隷輸入に反対しながらも、自身の奴隷は手放さず、共和制に相反する奴隷所有を承認している状態でした。奴隷に対する扱いはこの時代にしては親切な扱いで、雨風をしのげる住み場所と十分な食料を与え、むち打ちや焼き印を押す真似はせず、罰則も口頭注意の域でした。
補足:奴隷の待遇はオーナーで大きく異なり、住み場所も与えず、ろくな服装も与えず、食料も最小限しか与えず(飢餓に近い状態で強制労働)、脱走しようとすれば、捕まえた後にむち打ちの刑で拷問をかまし、満足しなければ、焼き印を押す酷い待遇を受けていた奴隷も数多いです。
ジェファーソン政権での振る舞い
アダムズ政権時の外野での振る舞い
マディソンはジェファーソンとともにケンタッキー州およびバージニア州決議を密かに作成し、外国人・治安諸法に抗議していましたが、この時に州同士による分裂で起きうる内戦の議論を正当化してしまうこととなり、後に国全体として苦労することになります。しかし、マディソンとジェファーソンの親密な関係もあり、マディソンは一目置かれる存在だったことと思われます。尚、マディソンは連邦党に対抗した機関紙総設にも寄与してます。民主共和党の共同創設者かつ、民主共和党の機関紙「Gazette of the United States(合衆国の新聞(ガゼット、官報)」を出すなどで注目の的でした。
Gazette of the United Statesの一部
ジェファーソン政権での振る舞い
ジェファーソンが大統領になるように応援していたマディソンでしたが、ジョン・アダムズの大統領就任が決まった後、しばらくの間は政治から距離を置いていました。政治の舞台に戻るのは、ジェファーソンが国務長官として側近に置きたい趣旨を受け入れたときです。1次ジェファーソン政権では国務長官の職務を全うしました。ルイジアナ買収の件において、マディソンが特使としてフランスへ派遣され、ルイジアナ買収の成功を実現させた立役者でもあります。2次ジェファーソン政権でも国務長官として通商禁止法を提案し、米国の交易に大打撃を与えました。ジェファーソンと同様に農業国としての発展を通した考えを共有しており、交易の重要性をよく理解していなく、中央銀行の役割を果たす銀行の創設の妨害にも積極的だった為、1812年の米英戦争で戦費調達の面で苦しむこととなります。
選挙活動
ワシントンにならって、ジェファーソンは二期目を終えた後、選挙に出ることはせず、民主共和党の間でマディソンが大統領候補者として選ばれ、副大統領候補はジョージ・クリントンです。対抗する連邦党は大統領候補としてチャールズ・C・ピンクニー、副大統領候補はルーファス・キングを立てました。
注:ジョージ・クリントンは42代大統領のビル・クリントンの先祖ではありませんので、注意。
選挙の結果はジェームズ・マディソンの大勝です。工業製品の交易を含めた経済活動を行っていた東海岸の北部州は連邦党側につきましたが、その他の内陸部と東海岸の南部州が民主共和党側についた構図です。
1808年大統領選挙の結果
大統領就任式
大統領就任式での演説では、米国各州のあゆみを進歩とした上、今後の連帯感がより一層重要になることを伝え、国内経済の活性化で国の借金(国債)を減らすことでより一層発展させると挨拶部分で語りました。その後、外交での中立性の重要性に加え、それを阻害する国々の存在を中立を守る上での課題と位置づけました。中立と米国が発展する為にも合衆国憲法の下で団結する重要性を強調しました。
全文は以下より
ジェームズ・マディソン小ネタ
ジェームズ・マディソンは歴代大統領で最も背丈が低い大統領としての記録を保有しており、その背の高さは驚きの163cmです。まだ更新する後任者は現れていません。補足として当時の米国は今と違い、栄養摂取量が今程多くなく、小柄な背丈の人も多い時代であり、この年代の家具(主に椅子やベッドなど)を直接見ると小柄な人が使う仕様が多いです。よって、マディソン大統領の背丈は時代という要因もあることを忘れてはいけないと思います。先代と比較するとワシントン188cm、アダムズ170cm、ジェファーソン183cm。現代と比較するとジョージ・W・ブッシュ180cm、バラク・オバマ185cm、ドナルド・トランプ188cmです。
注:すべての数値を四捨五入してます。
歴代大統領の背の高さや肥満度をまとめたサイトがあるので、気になる人は下記を参照ください。
他には、過去に流通していた5000ドル紙幣に顔が載っていることでも有名な大統領です。
5000ドル紙幣の画像
あとがき
ジェームズ・マディソンの生まれから独立戦争の活躍まで高く評価できる点が多く、性格も安定的であり、必要とあれば、仲間と一緒に行動を起こせる人物という印象が強い人物です。現代だと奴隷解放しなかったことで問題視されますが、マディソンが存在した時代では独立戦争の影の英雄(法律面での活躍)で必要不可欠な人物だったと思います。交易に関する理解が不十分なことが傷なマディソンですが、人としての評価は高いです。しかし、今後明らかになると思いますが、マディソンの政治家として手腕は評価が難しいものだと思います。次回は一期目(1808-1812)でジェームズ・マディソンが何をした大統領かに触れたいと思います。
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