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【米大統領列伝】第五回 ジェームズ・モンロー大統領(前編)

はじめに

 予告通り、今回から第五代米国大統領ジェームズ・モンローの回になります。

生い立ち

 モンローは、1758年4月28日にバージニア植民地ウェストモアランド郡で誕生しました。父親は中規模のプランテーションオーナーで、モンローの母親と1752年に結婚し、5人の子供(内4人が成人まで成長)を授かった。少年時代は、ワシントン教区のアーチボルド・キャンベル牧師が運営するキャンベルタウン・アカデミーで他の同年代より勉学で才能を発揮した。16歳の時、ウィリアム・アンド・メアリー大学に入学したまでは良かったのですが、時は1774年の英国からの理不尽な徴税が行われていた時期であり、キャンパス内でも、反英国の雰囲気が形成されてました。わずか17歳のモンローは、独立戦争の戦いに参加しました。武器庫の襲撃から始まり、大学を退学し、大陸軍に入隊した。

補足:以後、学位を得るために大学に戻ることは無かった。

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デラウェア川を越える肖像画にて、国旗を掲げるモンロー

モンローは、ワシントンと共に、デラウェア川を渡るなどしたが、トレントンの戦いで肩をマスケット銃で撃たれた為、戦線を離脱し、ジェファーソンから法律を学ぶ。戦後、バージニア州フレデリックスバーグで法律への知見を高めた。

ゴールインするジェームズ・モンロー(27歳)

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エリザベス・コートライトの肖像

 モンローは、1786年2月16日にニューヨーク市にて、エリザベス・コートライトと結婚した。エリザベスの父親は、私掠船で功績を上げた商人の為、裕福な家庭でした。モンロー家は、3人の子供を授かります。名前は以下の通りです。

エリザ・モンロー・ヘイ
ジェイムズ・スペンス・モンロー
マリア・ヘスター・モンロ・ガバヌーア

内、マリアは、ホワイトハウスで行われた初めての結婚式の花嫁となります。

 元々、大規模プランテーションオーナーを目指していたモンローでしたが、プランテーションは仕組み上、あまり儲からない為、贅沢な暮らしをしていたモンローには不向きだった。この為、負債の肩代わりに資産を売ることもしばしばあったので、生活面でモンロー家は苦労することが多かった。

独立戦争での立ち位置

 独立戦争では、デラウェア川を渡ったたり、実戦に出たことからうかがえるようにモンローは、米国という概念を達成する為に身を捨てる覚悟を持っていたことがわかります。戦場で負傷を負った後、政界進出を本格的に考えるようになります。

補足:モンローは、独立戦争で戦った最後の大統領です。

政府に関する考え方

 モンローは、反連邦党で権利の章典がないことに抗議する形で憲法承認に反対していた。憲法が制定されると、ジェファーソン一派に加わり、民主共和党に入党。中央政府の権力を最小に抑えることを主な理念として持っていた。

奴隷制に関する考え

 モンローの奴隷制に関する考え方を見ていくに辺り、モンロー自身が保有していた奴隷を参考にしたら、あまり興味関心を持っていなかったとしか、言えないと思われます。これまでの大統領は、明確的に奴隷制に反対しながら、奴隷を保有する矛盾状態だったのに対し、モンローは、所有しても、特に気に掛けることはなかった。所有する土地と奴隷を直接監督することもない為、奴隷は酷使現場監督に肉体労働として酷使されますが、現場に行かない為、知る機会すらない。なので、モンローの場合、奴隷制に無関心だったと思われます。尚、バージニア州知事時代に奴隷の反乱鎮圧を行ったが、これは治安上の懸念から行ったと思われます。

ワシントン政権、ジェファーソン政権及び
マディソン政権での振る舞い

ワシントン政権

 ワシントン政権時、モンローは在フランス米国全権公使として、独立戦争の立役者の一人であるトマス・ペイン氏の釈放に成功します。ワシントン政権が中立的な立場を取ろうとしていた中、モンローはフランス優位に振る舞う為、解任されます。アダムズ政権時は、バージニア州知事として活躍。

ジェファーソン政権及びマディソン政権

 ジェファーソン政権時は特に反対運動を起こすこともなければ、党内闘争をすることもしなかった。ルイジアナ買収で活躍したモンローは、後に米国英国担当大臣として、起用される。

 マディソン政権時代に入ると、国務長官まで上り詰める。1812年の米英戦争もホワイトハウスが焼き討ちにされるも、無事に終結した後の1816年の米大統領選挙にて、大差で勝利を収める。

選挙活動

 選挙運動自体は特に何もする必要がなく、戦争の終結で好感の時代に突入していたことに加え、マディソン大統領が大統領は二期までという慣習を守った為、必然的にモンローが後継者になることになった。尚、ヘンリー・クレイやアンドリュー・ジャクソンも有力候補とみられたが、出馬しなかった。モンローの唯一の課題は、歴代5人中4人目のバージニア州出身の大統領になるという一点だけです。

補足:この時代は、バージニア州出身ではない大統領はジョン・アダムズのみ。

 対抗する連邦党はハートフォード会議と呼ばれる一連の会議にて、米英戦争中に連邦を離脱するべきだと唱えていた為、国民に見放されます。以後、連邦党は消滅するまで勢力は縮小します。

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ハートフォード会議の資料の一部

補足:民主共和党以外の対立政党不在の時代のことを好感の時代と呼びます。

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選挙結果

ジェームズ・モンロー 選挙人数 183人

ルーファス・キング  選挙人数 34人

インディアナ州票の取り扱いについて

 この選挙時、インディアナ州は領土(territory)から州(state)に昇格される時期と重なり、票の取り扱いで含めるべきかの議論はあったが、最後は含める形で終結した。

補足:この時代のインディアナ州の選挙人数は3人

大統領就任式

 快く、向入れられたモンロー大統領は、就任演説にて、これまでの米国の連邦としてのあゆみを振り返りながら、インディアナ州の加盟を祝った。最後に、モンロードクトリンの伏線とも言えるヨーロッパの国々と距離を置く考えを述べると同時に国内に産業を置く重要性を強調しました。

就任演説の全文が読みたい人は以下のリンクより

ジェームズ・モンロー小ネタ

 モンローの肖像画は、モールス信号を開発したサミュエル・フィンリー・ブリース・モールスが画家時代に書いたものになります。

 2007年から始まった歴代大統領の1ドル硬貨プロジェクトにて、モンローは使われます。デザインの仕様は、ルイスとクラーク遠征隊に同行した原住民のサカガウィア(女性)が映っている1ドル硬貨と似ています。

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サカガウィア1ドル硬貨

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モンロー1ドル硬貨

1ドル硬貨の一覧は以下のリンクより

補足:ジョージ・ワシントンからジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュまで歴代米大統領の1ドル硬貨が存在する。

 同時に、2007年から始まった大統領夫人10ドル硬貨プロジェクトにモンローの奥さんのエリザベス・コートライトが使われる。

補足:マーサ・ワシントンからバーバラ・ブッシュまで歴代米大統領夫人の10ドル硬貨が存在する。

10ドル硬貨の一覧は以下のリンクより

感想:個人的には、日本の桜がワシントンDCに親睦の証として、寄贈されたタフト大統領時代のヘレン・タフト仕様の10ドル硬貨のデザインが好みです。裏面には、寄贈された桜が映ってます。

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ヘレン・タフト10ドル硬貨の裏面の桜

あとがき

 モンローは、大統領になるまでの経歴は輝かしい功績も多い人物で、大統領就任時期も激しい争いも起きなったタイミングのいい時期で大統領に就任した印象があります。次回は、ジェームズ・モンローが一期目で何をしたか見ていきます。

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