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【米大統領列伝】第三回 トマス・ジェファーソン大統領(前編)

はじめに

 予告通り、今回はトマス・ジェファーソンの回になります。

生い立ち

 1743年4月2日に十人兄弟の三人目としてトマス・ジェファーソンはバージニア植民地に生まれました。ジェファーソン家はバージニア植民地でも古くから入植し、著名人とのコネクションも持っていました。トマス・ジェファーソンは牧師の経営する地元の学校に通い、幼い頃からラテン語、古代ギリシア語、フランス語を学んでました。父親の死去をきっかけに14歳だった時に領地と数十人の奴隷を相続し、そこにモンティチェロと呼ばれることになる家を建てました。この頃から古典、歴史、科学を学び始め、16歳には名門ウィリアム・アンド・メアリー大学の哲学科にて数学、形而上学および哲学を学びました。勉強熱心なジェファーソンをみて教授はジョン・ロック、フランシス・ベーコン、アイザック・ニュートンらイギリス経験主義者の著作を紹介し、ジェファーソンも彼らを高く評価してました。ジェファーソンは一日の大部分を勉強に捧げる少年時代を過ごしてました。大学卒業後、弁護士として活躍し、前回紹介したジョン・アダムズと同じ職業ですが、ジェファーソンの方が人気弁護士で、毎年、100を超える訴訟を取り扱ってました。本人の努力もありますが、母方の家系のコネクションで集客努力はしなくても、顧客が来る状態だったので、コネクションに助けられた要因の方が大きかったです。

ゴールインするトマス・ジェファーソン(18歳)

 1772年にマーサと結婚します。元々、マーサは弁護士のバサースト・スケルトンと結婚していたのですが、スケルトンの急死で未亡人となったところに楽器演奏でジェファーソンと意気投合したと言われてます。残念ながら、マーサの肖像は残っていない。1882年に出産の後遺症により、死去。娘のマーサ・ワシントン・ジェファーソン(当時29歳)が主にファーストレディーとしての役割を果たすことになりました。マーサとジェファーソンの手紙のやり取りは多かったですが、ジェファーソンはマーサ死後に全部焼却した為、二人の間でどのようなやり取りがあったかは永遠の謎です。

独立戦争での立ち位置

 弁護士としての成功の中、1769年にバージニア植民地議会議員になりました。印紙法などの一連の耐え難き諸法成立後、「英領アメリカの権利に関する要約」なる反対決議文という出版物を出し、名は一躍有名になりました。

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英領アメリカの権利に関する要約の表紙

全文は以下より

 ジェファーソンは自然権を根拠とした権利主張をしていました。英国王ジョージ三世に対し、恐れ多くも「王は人民の召使であり、主人ではない」書いてます。元々、英国下の元で権利主張をするつもりで書いたはずでしたが、周囲は独立する革命を喚起する主張と読み違え、ジェファーソンは愛国者であるという誤解が広まります。大陸会議ではバージニア代議員として活動し、英国の和解案を踏みにじるなどしてました。重要文章や会議でよくみる人物として周囲でも期待されてました。ジェファーソンは書き物をさせると才能を発揮するという評判から独立宣言の起草の原文を担当します。僅か4ページからなる独立宣言の草案は2、3週間程の期間で提出から決議されます。大陸会議では表現が添削され、内容の4分の1を外されました。7月4日に独立宣言は可決し、名声も更に高まりました。

 独立宣言採択後、教育改革に力を入れ、大学で初となる研究の選択制導入を行った。他にも相続や心境の自由などに関する法体系の整備にも力を入れました。

注:大統領任期中に宗教に関する書物を出すことになりますが、それは次回に紹介します。

ジェファーソンは極刑(主に死刑)の廃止も唱えていたのですが、投票で否決されます。大統領として選挙で当選するまでバージニア邦知事をしてました。

注:ジョン・アダムズの副大統領も兼任していましたが、アダムズの妨害ばかりをしてました。

独立戦争中の英国側の主力部隊に二度もバージニアは攻められ、ジェファーソンら議員は逃げ回ってました。バージニアを守れなかったことに加え、モンティチェロに逃げたことから大衆は敵前逃亡したと非難され、名声は下がります。

政府に関する考え方

 そんな中、ジェファーソンに転機として、フランス公使に任命されました。フランスでジェファーソンの政府に対する考え方が形成されたと言ってもいいくらいフランスのような国作りをすべきと言うようになります。ジェファーソンは米国政府の権限を最小にした農耕社会を目指すべきという主張の元、議会に参加してました。革命前のフランスでフランス国民が暴徒化する中でもジェファーソンはフランスを非難することはありませんでした。このひたすらフランスを擁護する姿勢で周囲から煙たがられる人物になってしまいました。

奴隷制に関する考え

 ジェファーソンは独立宣言の草案にて奴隷制の廃止を書いたのですが、その項目は削除されたことで有名ですが、ジェファーソン本人は大規模な奴隷プランテーションのオーナーであり、発言と行動の不一致が見られます。ジェファーソンのモンティチェロにて、奴隷600人以上も所有していた為、本心から奴隷制を無くしたいとは思っていない可能性もあります。奴隷に対する待遇として、信用できる奴隷のみに給与を支払うなどしたので、一セントも出してない奴隷主よりは良いが、言い換えるとその他の奴隷は一セントもあげてないことになります。労働時間も一日中で、キリスト教を信仰させる形で精神面で安定化を計り、聖書も読む必要があるので、読み書きできる奴隷も現れたと言われてます。ジェファーソンは新規の奴隷輸入を禁止する奴隷輸入禁止法を通すも、自身も保有してた既存の奴隷がもたらす穏健には目をつぶってました。

ワシントン政権とアダムズ政権での振る舞い

ワシントン政権での振る舞い

 ワシントン回でも書きましたが、基本的にハミルトンとの意見の相違による対立で議論が進まない中で、不満を漏らし、決まったことに対しても、妨害ばかりしてました。ワシントン政権の二期目ではフランスの英国との戦いに̠加戦し、同盟関係を守るべきとする主戦論を唱え、ワシントンを困らせました。二次ワシントン政権で国務長官の座を降りた後にモンティチェロにて、ハミルトンの妨害工作を合作してました。

アダムズ政権での振る舞い

 アダムズ回でも書きましたが、副大統領として就任するも、疑似戦争中のフランスとの和平特使としての大統領命令を拒絶します。フランス側が賄賂を請求してきたXYZ事件の際もジェファーソンはタレーランの問題であって、フランス政府には非がないと主張し、派遣された特使が問題だと言い出す始末でした。特使の任を拒絶し、就任された特使に不満を漏らすだけでなく、敵性を示し、賄賂請求という相手国を対等に見てないフランスを擁護する姿が印象的です。ただ、ジェファーソンを擁護する意見があるとすれば、大衆の意をくみ取り、フランスが大国であり、建国間もない米国は対等な扱いはできないことを理解していたと言うことも可能です。但し、フランスの戦争に足を入れたら、英国は米本土に大規模な戦線拡大し、米国を併合した可能性を考慮すれば、ジェファーソンら主戦論者は米国を自滅させた可能性をもっていましたので、アダムズの賢明な判断で米国は救われることになりました。

選挙活動

 そのアダムズに対し、根拠のない非難文を新聞社に垂れ流し、誹謗中傷の限りを尽くし、選挙で勝つ為のネガティブキャンペーンとして選挙以前から行ってました。アダムズの人格否定から性別に見合わない威厳や協調性に欠けると揶揄しました。アダムズもジェファーソンの非難に対し、ジェファーソンが当選したら治安が悪化すると言い返し、面倒に感じたかジェファーソンは死んだと記者に書かせた。この対立は過熱し、支持者間でもデマ合戦が行われ、連邦党と民主共和党も言い争いが行われ、非常に醜い言い争いが選挙期間中に繰り広げられました。
 選挙の結果はジェファーソンの勝利です。73人選挙人数を獲得しました。アロン・バーも73選挙人数を獲得し、幾度かの再投票により、ジェファーソンが大統領、アロン・バーが副大統領になりました。この選挙で大統領と副大統領の選挙人の票が混同されることが問題視され、1804年にアメリカ合衆国憲法修正第12条で大統領と副大統領の選挙人票を分けることになりました。

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大統領就任式

 大統領就任式では「これから米国は1000世代先まで繁栄する」と宣言し、「憲法の許す権力の範囲内でそれを実現させる」と述べました。更に、自国の平和と海外での安全を確保することの重要性に触れ、「誠実な友情をすべての国と行い、腐れ縁の同盟関係は行わない」という一国平和主義路線にも聞いて取れる発言を行った。

注:米国が建国し国際承認後、初の海外での宣戦布告及び、軍隊の派兵をしたのはジェファーソンです。その戦争は第一次バーバリ戦争ですが、次回詳しく書きます。

 尚、大統領としてのアダムズの最後の功績として、反対する党への大統領の権力譲渡過程を平和裏に行ったこともあり、多少の嫌がらせも込めた人員を残すなどのこともあったが、最小限の苦労で権力譲渡がなされました。

トマス・ジェファーソン小ネタ

ジェファーソンは2ドル札に載ってる人物ですが、2ドル札の流通量が少ないことに加え、認知されてないことがあり、毎年のように二ドル札を偽札だと警察に通報する事例が絶えない。(現代の話)

2ドル札を使用したら逮捕された話

学校給食を購入する為に2ドル札を使おうとしたら、偽札を出されたと疑いをかけられた記事

2ドル札に関する話題を取り上げたYouTubeチャンネルも存在するので載せておきます。

あとがき

 ジェファーソンは徐々に自身のカリスマ性に陶酔していくことで大局が見えなくなっていた人物だったと思います。少年時代や学生時代だけをみれば、素晴らしい人物に見えますが、フランスかぶれになった頃からおかしくなりました。政治にのめり込んでいく過程で悪化し、平然と裏で偽情報戦を繰り広げるような人物になってしまいました。次回は大統領の一期目でトマス・ジェファーソンが何をした人物かを書きます。

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