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『灯台からの響き』ノート

宮本 輝 著
集英社文庫

 父親から引き継いだ中華そば屋「まきの」を営む牧野康平は、妻の蘭子を2年前に急病で亡くして以来、商売を休んでいた。中華そばは蘭子との共同作業でなければできないと思っていたからである。

 ある日、店の2階の自分の書斎でこれまで何度も読むのに挫折していた『神の歴史 ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史』(カレン・アームストロング著)という本を仰向けに寝転んで読んでいたとき、ページの間から葉書が落ちてきた。それは30年前に妻の蘭子宛に届いたもので、差出人は小坂真砂雄という名前が書かれており、大学生最後の夏休みに灯台巡りをした、という近況の報告であった。しかし蘭子はその差出人に全く覚えがないと言い、全く心当たりがない旨の返事を出したのだ。投函したのは康平だったからそれはよく覚えていた。
 その葉書をあらためてみると、その下半分には細いペンでどこかの岬らしいギザギザの線が描かれており、ぽつんと打たれた小さな点は灯台に違いないと康平には思われた。この一枚の葉書からこの物語が始まる。

 そのことをきっかけに、康平は灯台に関する本を購入した。その本には写真と詳しい説明文が載っていた。
 康平は妻が亡くなってからの出不精を解消しようと灯台を見に行く、それだけを理由に灯台巡りを始めるのだ。それは例の葉書の灯台がどこなのかを知りたいということが心の奥の動機であったことは間違いない。

 康平は高校を2年で中退した。その理由のひとつは父親が営んでいる中華そば屋の厨房でのチャーシュウを作るときのにおいが康平に染みついていて、それが女子生徒たちの陰口の種になったことが理由の一つだった。それで、どうせ父親の後を継いで中華そば屋をやるのだから、学歴は必要ないと父親が止めるのも聞かずに退学したのだった。

 康平が憑かれたように読書を続けたのは、同じ商店街のビルのオーナーで友人のカンちゃんこと倉木寛治である。彼からお前という人間は面白くないと指摘されたことがきっかけだ。高校中退だからと卑下する康平に、カンちゃんはとにかく本を読め、優れた書物を読み続ける以外に人間が成長する方法はないと強く勧めたのだ。
 また店の常連に高校の数学の元教師がいて、あるとき店に来たその老人に、本を読みたいが、何をよめばいいのかわからないと聞くと、何冊か教えてくれた。その中で特に森鴎外の『渋江抽斎』は読むには難儀だったが、それ以降康平の愛読書になった。店の二階はいま康平の本の保管場所になっている。

 あるとき康平は娘の朱美から、母親は謎めいていたという長男の雄太の言葉を聞く。その頃中学生だった雄太はいつも年賀状を仕分けていた。その中に島根県出雲市からの年賀状があった。それを読むと、どうみても母親が出雲市に住んでいたとしか思えないような文面であった。それを母親に聞くと、いつも話をはぐらかされていたというのだ。

 このままストーリーの展開を追いたくなるのだが、ネタバレになってしまうので、ここらで止めることにする。

 謎の葉書に書かれた岬と灯台がどこかを、ある若者が突き止めてくれたが、康平はそこには行かないままいったん東京に帰る。その後、葉書を書いた小坂真砂雄が店を訪ねてきて、彼の提案でその灯台を彼と訪ね、蘭子の出雲時代の謎を突き止める。それはいかにも蘭子らしい理由があったのである。
 この葉書に書かれていた灯台は、島根県出雲市の日御埼(いずもひのみさき)灯台であった。

 ここからは余談である。
 筆者がこの本を読み終えたのは8月5日だったが、翌日の6日の朝、NHKの「さわやか自然百景」という番組でこの灯台が取り上げられていた。世の中時々このようなシンクロが起きるから面白い。
 世界の灯台百選にも選ばれた日本で一番背の高い石積みの灯台で、昨年(令和4年)2月に国の重要文化財に指定されたそうだ。

 閑話休題。この葉書の謎は解けるのだが、蘭子が何故この本に葉書を挟んでいたのかは最後まで読んでも分からない。康平が開いては何度も挫折していたこの本をいつか開くかもしれないと思って挟んだのか……。筆者は、蘭子が夫の康平に自分はこのように生きてきたということを、自分の死後いつか分かってもらえると思い、挟んだのだと解釈したい。夫は必ずこの本を開くと……。

 宮本輝の作品は誠実で魅力的な登場人物が多い。過ちを犯したり、挫折しながらも、なんとか前向きに生きていこうという人物像が描かれており、読者に「人生っていいな」、「希望を棄ててはいけないな」と思わせてくれる

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