見出し画像

『ルルドへの旅』ノート

アレクシー・カレル著
田隅恒生訳
中公文庫

  フランス南西部のピレネー山脈の麓にルルドという町がある。〈ルルドの泉〉や〈ルルドの奇跡〉という言葉でご存じの方もおられるかもしれない。
 その由来は省略するが、ルルドにある洞窟の湧水で病気が治癒したという話が広まり、ローマ・カトリックの世界的な巡礼地になった。わが国にも明治時代にカトリック宣教の一端として初めて紹介されている。

 このルルドの洞窟から湧き出る水が、あらゆる病を治すということで〈ルルドの奇跡〉として評判になり、のちにノーベル生理学・医学賞を受賞したアレクシー・カレルというフランスの医学者が興味を抱き、1902年に巡礼団とともにルルドを訪れた。そこでカレルは、親を結核で亡くし、本人も重篤な結核性腹膜炎に罹っている娘がこの泉で治癒したのを目の当たりにする。

 この『ルルドへの旅』は、カレル(Carrel)自身の体験を書き残すにあたり、自分の姓の綴りを逆にしたルイ・レラック(Lerrac)という医師を主人公として、第三者の視点で書いており、登場人物を一部仮名にするなど、公表を前提とした小説仕立ての作品だ。カレルの死後に夫人によって発表された。

 中公文庫版240ページのうち、『ルルドへの旅』は注釈を入れておよそ半分で、あとは『ルルドへの旅』をどう読むか、など翻訳者の解題のページとなっている。

 主人公のレラックは敬虔なカトリックとして人生をはじめ、ついでストア主義者となり、さらにカント派となって、最後に落ち着いたのは穏やかな懐疑主義者であった。
 そしてこのルルドへの旅が、懐疑主義者で医学者であったレラックにもたらした心理的な変容がこの作品の主軸となっており、それは著者のカレルの科学と奇跡現象の捉え方の変容にほかならない。

 レラックは、ルルドで病気が治癒したといういくつもの報告に興味を持ち、科学的な調査を行うに値すると確信し、ルルドへの巡礼団に医師として同行することになった。
 レラックはマリ・フェランという娘の病状をルルドへの列車の車中や現地の病院でも診察した。彼女は結核性腹膜炎末期の典型的な症状を呈していた。出発前に診察した外科医はその症状の重篤さに手術を見送ったほどだ。車中でレラックは、苦しむ彼女にモルヒネを打つしか対処法はなかった。

 レラックはルルドで病気が治ったという話を聞いても、それは自己暗示の興味ある実例であって、器質性疾患が治るはずがないと考えており、ルルドで出会った友人にもそう告げる。科学的精神の持ち主にとって奇跡は荒唐無稽だと思うが、一方でがんの消滅など器質的疾患が治癒すれば、超自然的な力が作用していると認めざるを得ないとも思っている。
 そして自分がルルドに来たただ一つの理由は、できるかぎりの正確さで病人の身に起きたものを記録することだとも言う。
 
 レラックはマリ・フェランを診察したが、生きて帰れればそれ自体が奇跡だという状態であった。しかし彼女のたっての希望で、看護婦は彼女を水浴場に連れて行くことになり、彼も同行した。

 ルルドにいる病に悩んでいる多くの巡礼たちの姿を見て、レラックは堪えがたい苦しみを味わっているマリ・フェランのためにいつしか祈りを捧げていた。そして先入見を排し、自分で観察できる現象があるならどんなものでも証拠として受け入れるつもりになっていた。

 水浴(ルルドの泉の聖水を3回腹部にかけたと解題にある)の後、レラックはマリ・フェランの様子が明らかに好転しているのを見た。光がなかった彼女の目は、恍惚としたまなざしで大きく開かれ、彼女の膨張していた腹部を覆っていた毛布が次第に平たくなっていくのを目のあたりしたのだ
 いま確実に何かが起こりつつあったのだ。彼は、気分はいかがですかと問いかけると、彼女は、「ずいぶんよくなったように思います。まだ元気は出ませんが、治ったような気がします」と答えた。病状は別人のように改善していた。
 ルルドの診療所長にこのことを話すと、ボワサリー所長は驚くそぶりも見せず、あなたの患者は治ったことは確実だと思われると答えた。
 その後、レラックがマリ・フェランを診察したときには、彼女はやつれてはいたが、生気がみなぎり、頬にもかすか血色が戻ってきていた。そして彼女はこう言った。
「私はすっかりよくなりました。力は出ませんが、歩くことだってできると思います。」
 その様子を見て、レラックの内心は混乱した。見かけの治癒にすぎないのか、病変が現実に治癒したのか。それともとうてい受け入れかねる出来事――つまり奇跡なのか――。

 他の医師が診察しても、「完治している」という判断であった。このことをどう説明したものか、レラックは悩みながらも、この娘の病気が、それも末期の結核性腹膜炎がいわば瞬時に器質的に改善し、治癒したことの説明はできなくても、この娘の今の幸せを見ているといろいろと説明を探すなどたいした問題ではないと彼には思えるようになる。
 彼女は驚いているレラックに、聖ヴァンサン・ド・ポール愛徳修道女会に入って、病人の看護をしたいと言った。

 この実話にもとづいた話をどう受け取るかは、読者にお任せするが、当時、例えば隕石の落下を見て、火山の噴火の結果だという説がまことしやかに流布したり、日食や月食の現象は天体運動の法則がわかるまでは、その原因を超自然的なものとしていたのだ。しかし〝食〟の原因がわかった途端に超自然的なものとは呼ばれなくなった。
アレクシー・カレルは、不思議と思われる現象を、いまある科学的体系の枠組にはめ込もうとすべきではないと考えていた。
 ただ不可知論者であったカレル自身がルルドに行った――5度訪れている――ことを伏せていたこともあり、また中途半端な態度をとっていたために、信者、非信者(特に医師や科学者など)双方から非難を受けた。しかしこのことが遠因となって、カレルはリヨンを出て、カナダに移住することになり、後のノーベル賞受賞につながるのである。
 ちなみに、このマリ・フェランの事例はローマ・カトリック教会からは奇跡とは認められていない。その理由はこの本の解題にも書かれていない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?