時をかける中年女子
あの頃の日々の詳細を覚えていない。
今日1日をどうやってこなしていくのか。
それが毎日の課題だった。
どんなことを考えて生きていたのか
と問われたら
ただお母さんのためだけに生きていた
いと考えていた
と答える。
1番忙しい日のスケジュールは⬇︎
私が新聞配達を終えて
部活の朝練がある息子(中2)と
遅れて出て行く娘(高2)
のお弁当作りと送り出し。
健康センターでの仕事を終えて
(純烈の皆さんが来ていた
今は無き、当時とても忙しい職場)
夕方帰宅。
夜勤の主人のお弁当作りと送り出し。
息子の塾の前に
子どもたちの晩御飯を作り
それから母の入院先の病院へ。
自転車と電車で。
仕事がお休みの日は
配達・家事をこなしてから病院。
仕事が短時間の日は
配達・家事をこなしてから病院。
要するにほぼ同じルーティンで。
4人姉弟の3姉妹末っ子甘えん坊の
(中年女子ですが)私にとって
いや、私たち姉弟にとって
いつも笑顔の母は女神様だった。
多くの人たちがそうであるように
私たちの大好きなお母さん。
ずっとそばに居たかった。
自分が疲れ死んでもいいから
そばに居たかった。
その感情は思い出せる。
2015年の年が明けたある日
風邪など引いたことのない母が
風邪を引いた。
止まらない咳。
足にできた謎の青いアザ。嫌な予感。
病院で検査をしてもらうよう
予約を取った。
その前日に高熱を出した。
病院に着くと即入院。
「今夜が山です」と
ガキ使で聞き覚えのあるセリフを
三度、主治医から聞かされた。
今夜が山田だって。嘘でしょ。ウケる。
笑えなかった。
「顕微鏡的多発血管炎」
原因不明の難病。
手探りの治療。
あんなに福々しい笑顔のお母さんが
痩せていく様。
海外の新薬をどんどん投入されていく。
人体実験みたいに。
主治医から呼び出されるたびに
難解な用語だらけの説明を受け
治療の承諾の同意書へのサイン。
サイン。サイン。
難病のことは母には内緒にしよう
と姉弟で決めた。
そうすることで
大丈夫、必ず治る
そんな脳内暗示をかけようとしてたのかもしれない。
だから皆が努めて明るくしてた。
いつも頭の中は
お母さんでいっぱいだった。
連日の病院通いで
主人から交通費をいただく時に
舌打ちをされた。
とても悲しかった。
交通費を浮かせるために
駅から病院まで歩くことにした。
とても情けなかった。
人と会うと元気になる性格なのに
人に会う元気も時間も
お金もなかった。
病院へ行ったある日の帰り道
最寄駅に着いたのが23時だった。
何で遅くなったのか
実家で片付けしてたのか
姉と遅くまで話していたのか
よく覚えてないんだけど。
最寄駅から自宅まで
二駅分の距離を自転車で飛ばす。
ふと、急に悲しみが込み上げて来た。
漠然とした悲しみ。物凄い勢いで。
あー辛いんだ私。
暗く静かな一本道。
地元と違って田舎なので
人っ子一人通ってない。
自転車を漕ぎながら涙が出た。
涙が止まらなくて。
どうしようもなく悲しくて。
お母さんが大好きで。
「ふざけんな!ふざけんな!」
泣きながら叫んだ。
本当はいけないんだろうけど
かなりのスピードで
自転車を思い切り走らせた。
このまま時空を越えられるかも
と真剣に考えながら
アニメ「時をかける少女」のまこと
をイメージしながら
(中年女子ですが)
必死で漕いだ。思い切り泣いた。
ふざけんな!
人のために生きてきた
苦労を重ねたお母さんの
命を奪う運命め!許せない!
お母さんが咳をする前に戻れたら。
お父さんも生きてた頃に戻れたら。
みんなが元気に実家に集まれてた日に
戻れたら…
結局、願いは叶わず
残念ながら時空は越えられなかった。
だけど不思議と家に近づくに連れて
少し落ち着いた。
泣きたい時は泣く
叫びたい時は叫ぶ
心のままに生きる
その大切さを
46歳で心底知った。
これからはもっともっと
人間らしく生きていこう
と思った。
私の中の子どもと大人を
否定せず。
母は半年後に亡くなった。
もう意識が無かったはずの母が
「愛してるよ。また会おうね」
と泣きながら語りかけた
私たちに向かって
最期にクシャッと3回笑った。
亡くなってく母が笑って
生き続ける私たちが泣いた。
笑いたい時に笑って
泣きたい時に泣いて
そうやって生きていこうと思う。
その時の感情を我慢せず
心のままに
私のままで生きること。
母が教えてくれた
私が選択した生き方。
あの暁の朝
ありがとうって
笑ってくれたんだよね。
ね、お母さん。
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