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野ラーメン《Section 3》

ノラと会うようになって一年目ぐらい――杏子と付き合い初めて間もないころ――、ノラの卓越した相貌認識力をテストしたくなって、警察がネットで公開している指名手配犯の写真をA4の用紙にコピーした束をノラに渡したことがある。ダイヤの相貌認識力は人並みか、それ以下だが、ある屋台の店主が二十年以上前の左翼活動家に似ているような気がしていた。

そのテロリストの指名手配写真が、ダイヤの借りている月極駐車場の横に長い間貼られていて、頭にインプットされていた。飽きるほど写真を見た人物だから、たまたま似ている人がいると気になってしまうのだろう、と自分では冷静に捉えていた。

ノラに見せた二十名の指名手配犯の中に、その爆弾犯も混ぜておいた。その男に似た店主が営んでいる屋台は、しかも中津浜警察から百メートルしか離れていない場所で開店していた。指名手配犯なら、さすがに選ばない立地だろう。

しかし、指名手配犯でなくても、四十代後半に見えるあの店主は二十何年か前に左翼活動家だったはずだと勝手に決めつけていた。いつもチェック柄のシャツ(冬場は毛織のシャツ)を着て、長めの髪を赤いバンダナでまとめていた。

屋台がある淀川南側の中津浜鉄橋下には、淀川の北側にある十三の町からタクシーで向かった。タクシーに乗る前に写真の束をさりげなくノラから取り上げて、自分のバッグに仕舞った。ノラが屋台で写真をぴらぴら参照するような不自然な行為に出ると困るからだが、たぶんノラには写真をもう一度見る必要などないはずだと分かっていた。

ただ、ノラが不用意な言動をして店主を怒らせる恐れはあったので、「さっき見せた指名手配犯の一人に似た男がいても、黙っていてくれるかな。ピンポーンとだけ声を出してくれ」とノラに頼んでおいた。

午後六時を回り、屋台はオープンしていた。一見、ありふれたおでんの屋台だ。ただ、ノラが喜びそうなレアな具がある。

店主は基本的に注文を取る以外に客と喋らない。不愛想と言えば不愛想だ。万一、彼が指名手配犯なら無駄口を叩かないのが賢明だ。そもそも店主は客と目を合わせることさえ避けている。

そのくせ、屋台の裏側には「九月から十一月は当店荒地を休業、三重県にて野ラーメンを提供の予定。詳細は店主まで」の貼り紙がある。店主から詳細を訊きたいと思っていた。ノラもきっと興味を持つはずだ。ただ、三重県も、津とか伊勢志摩ならいいが、尾鷲とかになると遠い。子持ちのノラに行ける距離ではないだろう。

ノラは、店主の不愛想さなどおかまいなしに話しかける。「その真ん中らへんにある小鍋で仕切られた肉は、もしかして猪ですか?」

店主が「猪肉、一人前?」とぶっきらぼうに答える。すると、ノラが唐突に「ピンポーン!」と発する。澄んだ地声が部分的に酒焼けした声質だ。店主は自分への返事が「ピンポーン!」かと思ったかもしれないが、そうではなく、ダイヤへの合図だった。つまり、店主が手配犯だと断定したことを意味している。

こんなに早期に断定するとは予想外で、多少狼狽えたダイヤだったが、話すべきことがあったので、話題を変える。「女と知り合いになった。あのミヤガワさんがいた三陸系の店で、知り合った。しかも、東北大学の後輩や」

ノラは驚いたふうもなく、悔しがるでもなく、こう返す。「彼女できても縁切らんといてよ」と突発的にいじらしいことを言う。まあ、その時点では杏子と特に親しい関係になっていたわけでもないが、手を出してしまいそうな自分の性質、そしてそうなりそうな二人の関係性に気づいていた。だから早めに杏子の存在をノラに知らせておこうと思った。

 「私は、今回もこんな変なテストを受けてる素直な女やで。探偵に紹介してくれるんやろ?」

探偵に紹介する予定などない。ただ単にノラの超常能力をテストしたかっただけだ。

暖簾をくぐって新しい客が来た。近くの飲食店の店主なのか、割烹着を着ている。「大将、熱燗くれるか!」と声を発した男。ダイヤは、その男に見覚えがあるようにも感じたが、人並み以下の相貌認識力しか持たない彼には思い出せない。そして、ノラが足元の水中に獲物を見つけ水鳥た鳥のように喉を伸ばし、再び「ピンポーン!」と囀(さえず)る。

ノラに見せた指名手配犯の写真は、いずれも二十年以上前に撮影されたものばかりだ。被写体が老化しているにもかかわらず、たった一枚の写真だけから特定できるとしたら、これは相貌認識力だけではなく、プラスアルファの謎の能力が関与している。あるいは、完全に間違っているか――だが、きっと正しいはずだとダイヤは確信していた。

ノラは私立探偵事務所で働くより、警察で「見当たり捜査官」になるか、賞金がもらえる国ならフリーランスで「バウンティハンター」(指名手配ハンター)になるべきだ。

さて、猪肉のおでんは、臭みもなく爽やかな味わいだった。すだちがマッチしていた。ノラは、一気に三人前をお代わりした。店主が注文を聞きなおしていた。

これは西暦2001年ごろの話である。捜査特別報奨金制度がまだ施行されていなかったため、指名手配犯人に賞金がかかっていることは基本的になかった。2007年以降なら、ノラが一儲けできる可能性もあったのだが、この時点の日本では賞金首を狩って金を稼ぐことはできなかった。

屋台に屋号があっても、なかなか気に留めにくいものだが、当店にも「荒地」という奇妙な屋号が付いていた。猪肉など、多少は荒地を連想させそうな具を用意していたが、大なべの片隅に透明に見えるキノコが浮かんでいた。

ノラが透明の具をめざとく見つけ、指名手配犯相手に臆することなく尋ねる。「その白くて透明っぽいのはキノコですか? キノコならください」

店主が「白木耳(シロキクラゲ)だね」と答える。関西弁ではない。答える言葉が質問への答えになっていない。相手に自分の言葉を理解させることを重んじる関西では、ちょっと異端な対人性だ。

この二種類の珍しい具は、屋台の裏で言及されていた「野ラーメン」となんとなく結びつく。

「白木耳でご馳走様しとこうか。阪急中津浜駅の方へ行くとダンジョンがある。その奥に人を寄せ付けない店構えの中華があるので、そこへ行こう」と大食いのノラを新たな餌で誘う。

中津浜ででは、阪急電車の線路と国号176号線がが通行人を欺く二重階層構造を織りなしている。たとえば真夏の炎天下、あなたが汗水垂らして登る坂道は、大地の自然な変化によるものではなく、人間が作った人工物なのだ。

その階層に挟まれた空間には、数多くの通路と倉庫が存在し、ところどころに飲食店が入居している。映画やドラマのロケ地にもなっている。

目的の中華店は、最奥の位置にあり、高架道路から中津浜の下町に降りてくる枝道の脇に入口がある。そこに飲食店があるとは、初めて通る人は誰も予想できない。狭い道に入ってくる自動車が多く店への出入りに若干危険を伴う。

しかも、入口が飲食店に見えず、板が斜めにかけられている上にセメントが無造作に飛び散っているなどして不衛生な印象を与える。看板がない。

ダイヤもまだ二回目の訪問だ。一週間前に杏子と一緒に来たばかり。杏子は関西人ではない。盛岡出身だ。

杏子には、ノラのような冷たさや鋭さがない。杏子もそこそこ細身ではあるが、表情や話し方に「おとなしさ」が満ちている。

なぜ、東北大を出た後、大阪に来たのか? そこには、ノラに引けを取らないくらいややこしい事情があるはずだった。

どうしてダイヤは、ワケアリな女とばかり関わりになるのか? ため息が出そうになる。看板がないので外から営業しているかどうか、いや飲食店なのかどうかさえ判別できない。ガラス窓の上から板が斜めに張られた引き戸を開けて入ると、店舗スペースの中央部の壁に黒板があり、品書きがチョークで掲示されている。

その最上辺には、「中華野菊の本日のお勧め」と書かれている。ノラが偶然にしては出来過ぎみたいな事実に目ざとく気づく。「荒地野菊やん! 荒地の大将が後からやって来るんと違う?」

幸いというか、店内は上を走っている阪急電車の騒音がひどくて、二人の会話を盗み聞きされにくい。だが、彼は念のためノラに注意した。「マジで来るかもしれん。出来過ぎやろ。店員に聞こえそうなときは、指名手配とかいう話もなるべくボカしてくれ」

と注意されている尻から、ノラが手柄を自慢したがる。「店主も写真があったけど、後から来た客も写真があったんやで!」

ノラが黒板のお勧め品から「野鴨のピータン」を選び、いきなり三人前も注文する。さらに、一杯千円の紹興酒を頼むのも忘れない。家鴨(アヒル)じゃなくて野鴨というのは、確かに魅力的に響く。だが、中国産の製品の嘘には誰しも騙されたことがある。本当に野鴨なのか? 大いに疑問を覚えながらも、紹興酒が正真正銘過ぎて二人の酩酊が急に深まる。

 「で、ルカはこの後、通報するのがいいとい思う? 賞金とかもらえないよ。逆恨みはされそうやけどな」

 「というか、だいたいダイヤはなんでこんな実験したん? どうするつもりやのん?」

 「わからん。でも、指名手配されてる男がなんで警察署から百メートルの場所で屋台やってるの? 警察官も客でうようよ来てるはずや。見つからないのが不思議や。たしかに、あの店主は、写真撮った二十代のころのロン毛状態から二十数年経って、髪がだいぶ薄くなってる。それだけの理由で、訓練積んだ見当たり捜査官も見逃してしまうやろか?」とダイヤは深く考えもせずに、口から適当な言葉を吐いていた。

 「あんた、適当なこと言ってへんか? あんたは通報したいのか、したくないのか、はっきり言ってみ!」とダイヤの適当さは、ルカに完全に見抜かれていた。

ここで、話を「野ラーメン」に振る。「さっきの荒地は、毎年秋口に長期で店を閉めて、三重県で『野ラーメン』を作っているらしいねん。『野ラーメン』に興味ないか?」

「野鴨みたいな話やな。意味わからんわ」とノラが関心なさげに答える。「だいたい、野菊の大将が専門なのはラーメンでもおでんでもなくて、バクダンなんやろ?」

決して狭い店舗ではない。でも、飲食店を想定はしていない。もともと倉庫や物置として設計さたスペースなのだろう。広さは十分で、天井がやたらと高い。四メートルはある。

天井はコンクリート打ち放しで、配管や配線が剥き出しだ。店の入り口は不衛生な印象だが、店内は清潔で問題がない。

典型的ナニワ女の特質を持つルカが気にするのは、当然、この店舗の家賃である。二十席はある店舗の家賃がたったの三万ぐらいだと後で知ることになる。屋台荒地は、土地の賃料として二万円を払っていると聞かされることになる。

荒地と野菊、それぞれの店主から直接聞かされたから知っている。ノラの相貌認識力により、二十前から指名手配されているとわかった二人から聞いたのだ。ノラは、口から出まかせを言っていたのか? いや、「野ラーメン」のことを荒地の店主に尋ねたあたりから、こういう話になった。

荒地の店主(以下「荒地」)は、野菊の店主(以下「野菊」)と友人どうしだったようだ。「野鴨ピータンを肴に紹興酒を飲んでいると、ダイヤもノラも結構酔って来て、警察に通報する話など、どうでもよくなった。

隣のテーブルに荒地が陣取ったとき、ダイヤは心臓が飛び出すほど驚いた。また、荒地も血走った目でルカを睨み付けるし、一時はどうしようかと思った。だが、ルカは怯まない。堂々と荒地を直視し、笑顔を浮かべる。「屋台の大将も、この店に来られるんですね」と平気で――普段のようにタメ口ではなく、わずかに敬語でソフト化して――話し始める。

荒地の目から血走った血管が消える。「ワシと野菊の店主は二十数年前からの付き合いだ。屋台の方が早く閉めるから週に何回も来る」そりゃあなたがたは昔「活動家」だったから、お互いのことをよく知ってるのだろう――という言葉は押し殺しておく。

ダイヤも会話に参加してみる。「『野ラーメン』って何ですか? 三重県でラーメン屋を経営してるんですか?」

そこへ、厨房の中から、屋台に客として来ていたもう一人の手配犯がやってくる。「うちの店も九月の終わりごろから十一月いっぱいは閉店する予定なんです」と野菊。荒地ほど不愛想な喋り方ではない。

「美味しいラーメンを提供するための第一の条件って何だか知ってますか?」とダイヤに訊いてくる。

ダイヤは「高品質な食材を揃えること…ですかね」と、もっともらしい答えを出してみる。

「家賃だよ。店舗の家賃が安ければ、食材選びに余裕ができる」と荒地が口を挟んでくる。「私たちが秋口だけ使っている物件は、もともと分譲の別荘だったが、マイナス五十万で売られていた。別荘需要が落ち込んだ今、今後何十年も課せせられる固定資産税から逃れるためなら、引き取り手に五十万ぐらいくれてやる…って話」

野ラーメン店の固定資産税は三十数万円だと言う。昨年から営業しているが、初年度は最初にもらった五十万と店の売り上げで十分な収支になったと言う。

しかし、店の立地が不便の極みだ。三重県尾鷲市だと言う。大阪から自動車で三時間、電車で四~五時間はかかる。どんなにグルメに訴えるものを出してもターゲット層はそこにいるのか? 世の中はバブルもとうに弾け、そこまでの時間的・金銭的コストを費やしてまで行ってみたいと思う人がるだろうか? しかも、ラーメンである。

その辺のことをそれとなく訊いてみたが、二人ともに何ら心配はしていない様子。それには、どうやら理由があって、二人がメインで営業している店の利益率が非常に高い。すべて家賃のおかげだ。野菊が家賃三万。荒地は、中津浜警察署が所有している区画を月二万で借りているという。

さすがにそれを聞いて、ノラの「ピンポーン」がはなはだ怪しいと思いなおす。今この場で追及するのも、当事者二人の手前はばかられるが、あとでとっちめてやろうと思った。

荒地が蘊蓄(うんちく)を語り始める。「野ラーメンのスープのベースになっているのは、ボウズハゼから取った出汁だ。大台ケ原から流れ出し、熊野川に注ぐ全長二十キロの奇跡の清流、銚子川で採れたものだ」

奇跡の清流 銚子川(ナレーション: 吉岡里帆)

野菊も話に加わる。「銚子川の水は、硬度6.4mg/lの超軟水なんです。ラーメンのスープに理想的です」

「銚子川の鮎もラーメンに味と香りを添えてくれる。チャーシューは、大台ケ原の猪を使ったものだけどね。うちの屋台で出しているのは、大台ケ原じゃなくて生駒の猪だ。正確にはイノブタなんだがね」

「あ、当店でも銚子川の超軟水を一部の麺に使ってますよ。たとえば、五目そばのスープは超軟水です」と野菊が注文を促す。

「じゃあ、五目そばの大を二つください」とノラが声をしゃくりながら注文する。品物が届いてからダイヤが箸を付けずにいると、ノラが大盛り二杯を一気呵成に胃袋に収めようとするのは見えている。


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