おっさんの戯れ言#6

君は君らしく生きていく自由があるんだ。


この言葉に自分たちが一番縛られてしまったのか。自由が自分たちを追い詰め、苦しめ、こうでなければならない、自分たちは戦い続けなけらばならない、抗い続けなければならない。そう定義したのか。


熱心かつ狂乱、懐疑かつ執拗。期待が大きければ大きいほどその重圧は増し、自らの心と体を蝕む。センセーショナルな訴え、今までになかった姿。それを次も、その次も求められ続け精神的にも肉体的にも未熟な年端もいかない若者たちは疲弊した。自らが、その身には重過ぎるほど重い十字架を背負い、鞭打たれながら進み続けなければならない宿命を、その若く可能性に満ち溢れた身体で受け入れ続けた。
彼女たちのその悲壮な姿を、聴衆は神格化し、自らの満たされぬ思い、果たせなかった願望、心に負った傷に対する拠り所として縋った。彼女たちもまたその要求に応えるべく命を削り表現した。時に背中を押し、時に寄り添い、時に一歩を踏み出す勇気を与えた。
未完成な若者たちが、文字通り必死に訴えるその姿は称賛も誹謗も同時に浴びた。戦い続けた。疲れ、傷つき、迷い、袂を分かつ同志も出た。その度にあらぬ疑い、虚構にまみれた。決して強くない自分たちがお互いを支えあい、手を取り合い、抗った。自らが紡いだストーリーをなぞるように。
しかし、その物語にも限界が訪れた。それも、ある日唐突に。

どんな想いが去来したのだろう。世界が開けた瞬間であるはずの最初期からほどなく苦悩と苦痛に苛まれた日々。それでもその一瞬一瞬を駆け抜けた日々。いましかできない、イマしか表現できない、今しか体現できない瞬間。儚く、美しく、切なく、それでいて鮮やかに呼び戻される青春の記憶。

キミハキミラシク、イキテイルノカ?

自由とは責任が伴う。
この場合はLiberty、勝ち取った自由・解放、規範の中での自由である。
同じ自由でもFreedomは単に何事も規制されない自由という意味で用いられる。こちらには責任はない。
彼女たちが謳った「自由」とは、明らかに前者の自由なのだ。

戦え、勝ち取れ、支配から抜け出せ。
もう失った人生なんて語るな。
たとえ絶望の淵に立っても。
変わり者でいい。はみ出してしまおう。自由なんてそんなもの。
わかってもらおうなんて努力はいらない。
誰かと競って生きるなんてもうやめよう。
誰が悪いわけじゃなく人は誰かを不幸せにしてる。
全員が納得する、そんな答えなんてあるものか。
人生の大半は思うようにはいかない。

ソレナラヤッパ
ナットクカンカシナイママ
ソノタビニナンドモツバヲハイテ
カミツイチャイケマセンカ?

これが彼女たちが選択した「自分らしく生きる」ことの解なのか。
抗い続けることが、その身がボロボロになり、その心がズタズタに引き裂かれても立ち続けることが、前途が明るく希望に満ちた人生を闊歩するはずだった少女たちの辿り着いた答えだったのか。
自由を唄う。その責任として多くの人々を救う。そしてその十字架を背負い、前に進み続けることを自らに課したのか。
いつしか彼女たちを信じ、追従する群衆は妄信し、自家中毒に陥ったかの如く彼女たちを攻撃する。対象が若く未熟な若者だということを忘れて。
これは違うと、そうじゃないと。異常に膨れ上がった期待を超えることを強制し、自らの浅はかな思想で分かったふりをする。真に理解することなど到底かなわないはずなのに賢しらに言を放つ。それこそが彼女たちが描いた忌み嫌うべき対象だということに気付かずに。

戦いの記録、抵抗の記憶は彼女たちの胸にしまわれ、新しい道を歩む。
その過程で傷つき、道半ばで離れた同志は多くを語ることなく、別の道を歩む。ただ、あの時確かに存在した彼女たちの歴史は時代を築いた。
全くの新しい様態として。誰もが想像しなかった表現者として。

唐突に出逢い、忘れえぬ衝撃を受けた一人として、いつまでもこの物語は変容していく。それだけ彼女たちが織り成した世界は複雑で、魅力的だ。
今後また別の捉え方で引き込まれるのであろう。そしていつまでも出せない自身の答えに苛まれるのであろう。否、答えは不要なのだ。それこそが、自分が自分らしく生きる自由なのだ。

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