純粋を失った後もつづく人生
自作詩(東方Project二次創作)
失はれた夜星/犬走椛
解説:
天狗と呼ばれる妖怪がある。日本において彼らは山の神そのものであると神格化されることもあり、鞍馬山、大山、那智大滝など四十八天狗といった、全国津々浦々の地名を与えられた大天狗たちが伝説として残っている。天狗には知恵があり、神通力があり、千里眼や未来を見通す眼があり、それは近代化する以前の日本において人々に重用されるものであった。
天狗にはその出自や見た目から種類が多く存在する。黒羽の鴉として天狗になるあるいは天狗として生まれる烏天狗。年老いた狼が成るとされる白狼天狗(または木葉天狗)。人間や鬼が修行を積んで仙人の如く成るという鼻高天狗。彼らはテリトリーや知能・身体能力の差を持っており、例えば白狼天狗は烏天狗のような羽を持っておらず空を飛ぶことが基本的にはできない。大天狗として崇められるものは基本的に鼻高天狗か烏天狗であり、白狼天狗は天狗の中でも地位が低いとされている。
生まれ持ったものによって差が生じる、それは人間社会のみならず、天狗社会においても変わらないようである。土台、現実の自然そのものがそういう差によって成り立っているのだから、無理のない話だ。
犬走椛《いぬばしり もみじ》は、東方Projectの世界である『幻想郷』において、数多の魑魅魍魎が潜む『妖怪の山』に棲む天狗である。その身分は白狼天狗。初登場時には台詞や立ち絵がなく、限られたピクセル数のドット絵しか情報がなかったものだから、ファンの間で様々な想像が凝らされた(尻尾があるだのないだの)。
そして、犬走椛が登場するステージにおいてボスキャラとして立ちはだかるのは、烏天狗である射命丸文《しゃめいまる あや》である。こちらは過去作から現在に至るまで多数の登場実績があり、台詞や立ち絵も豊富に存在している。意図されたわけではないかもしれないが、白狼天狗と烏天狗で登場の機会に大きく差があり、その強さや性格を露出させる場面の数も大きく違いがある。
天狗の階級社会については、下記の東方Project二次創作漫画での描写が鮮やかだ。白狼天狗としては恵まれた能力を持つ犬走椛が、烏天狗のうちでも随一の力を持つ射命丸文に、若かりし頃に将棋を挑む、という場面が描かれる。はじめは射命丸文を追い込み、「烏天狗でも私には勝てない」と勝利の安寧に浸る椛であったが、文から「もう一局、もう一局」と言われ再戦するうちに、瞬く間に文は椛の腕を凌駕してしまった。そして椛は、白狼天狗として生まれたからには、自分の領分を全うし、そこから上に伸し上がることなど考えるべきではない、という考えへと傾倒していく。
(主に1~10話にて、烏天狗と白狼天狗のどうしようもない差異について描かれる)
俺がこの詩『失はれた夜星』に込めたものは大きく二つである。一つは、前述した天狗の階級社会と、生まれ持ったものによってどうしても埋められない差について。そして、その差とは、必ずしも多くを持つ者に優位性を与えない、ということも。
俗にいう努力と才能の話だ。努力とは伸びしろであり、例えば受験勉強のように、勉強すればするほど点数は上昇し、志望する学校へ行きやすくなるという道理は、特に受験において成果を出せた人においては疑う余地の少ない事実である。しかし、努力しても結果が出なかった層というのは一定数存在する。あるいは、努力するという土俵にすら立てなかった人も。昨今では、「努力できるかどうかさえ遺伝による才能である」という見解も数多くあり(行動遺伝学の分野など)、もはや身もふたもない、やはり人は生まれながらあるいは運によって多くの能力が決しているのではないか、という虚しさが現代日本には跋扈しているように思う。
俺の個人的な意見としては、能力には生まれ持った差が生じるのが自然の摂理だし、努力という後天的な伸びしろによって解消できる部分には限界があると理解しつつも、しかし努力そのものが無意味であるという極端な立場に立ってしまったら、人生とは至極つまらないものになってしまうな、と思う。だから、自身の手を尽くし、できることを最大限行うことで、以前の自分では考えられないような場所に到達できるやもしれない、ということを、おれ自身の行動によって少しでも証明してみせたい、とは思う。少なくとも、自分より後に生まれる人たちが、俺たちの背中を見て、頑張っても意味ないと学んでしまうのは、非常に悲しいことだと思う。だから、手を尽くしたい。自分の可能性について手を尽くすことが、後塵が自分を信じることにも繋がると思う。
そういう、武井壮じみた考え方は、根暗な俺の中にも大事な主張として根差している。
ただし、綺麗事だけを抽出して、努力はすべてを凌駕する、努力すれば間違いなくその差を埋められる、と喧伝するのは、俺は間違っていると思う。白狼天狗と烏天狗の喩えのように、努力による伸びしろをあっという間に超えてしまう才能というのは、現実に存在している。さらに、努力をして能力を凌駕したとしても、それは果たして得たかったものに到達するのか、という話もしたい。
空を飛べるものと地を駆けるものの二者間において、「冬の寒空」を想起したとき、感じる寒気の感覚はまったく違うものだろう。遮蔽のない大空を切るときに全身に浴びる寒風と、森の木立の中で感じる寒風は、決定的に異なる。その二者間の間では、会話が成立しないこともある。認識が通わないこともある。そういう孤独が、才能と能力には存在している。俺はそのことについて、努力こそが至上、と宣って隠すような真似はできない。
能力によって得るものと、失うものがある。努力によって得るものと、失うものがある。それで、どうするんだ、という話は、この詩では展開していない。
もう一つ込めたものは、純粋の喪失だ。
もし野生の狼のままであったなら、烏天狗との能力の違いについて、ここまで逡巡することがあっただろうか。確執を感じ、嫉妬を抱き、乗り越えてやると躍起になったこともあったろうか。
その劣等感は努力の糧になっただろう。しかしそれによって、大いに苦しんだだろう。もし、努力が実らなかったとしたら、ただ苦しんだだけの損が募って、他者を呪いながら生きていくことさえある。現に、そういう人はたくさんいる。受験勉強でも、創作でも、スポーツやビジネスの世界でも、他者を越えられなかったことを、他者のせいにして正当化することしか道がなくなってしまう人はいる。
差を感じ、そのことに劣等を抱くこと自体が呪いだ。しかし、人間らしい知性を備えてしまえば、成長しそれを持ってしまえば、もう後戻りはできない。劣等感などなく、自分の世界に籠っていた頃には、簡単には戻れない。
他者と自身について差を感じ、それについて劣等や悔しさを抱いている時点で、人間の性に呪われている。その性をモノにするか、呑まれるか、なるべく避けて生きるか、それはもう、その人の問題でしかない。千差万別の答えのある、一義的な回答はできない問題だ。
ただ俺は、競争や勝負の世界に身を投じるのであれば、人間のどうしようもない劣等という性について、よく知っておかなければならないと思う。それが人を狂わせることも、これまでの関係を破壊してしまうことも、執着するほどに壊れてしまうことも、よく知っておかなければならない。その世界に居続けたいのなら。あくまで自分自身が希望で在り続けたいのなら。
これは暗い詩かもしれないが、そういう暗い性を見つめ、その時なりの答えを見出すことは、時に必要なことだと思う。