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「何があっても、あなたの味方」


 大好きな人どうしが、互いに人格否定をしあって殴りあってしまったとき、そんな言い方しないでよ、なんでこうしないの、こうすれば殴り合うこともなく話し合えたじゃん、と思ってしまうけれど、どんなに好きでも、その人のことを意のままに操ることはできないし、してはいけないと思うし、そもそも私だって二人がどうしてそう言い出したのかが見えているわけじゃない。だから私にできるのは、二人を嫌いにならないことだけです。そして、もし、万が一にも、あなたたちと話し合える時間ができて、このたびの諍いのことを気に病んでいるのなら、私の思想を押し付けるでなく、ただ、耳を傾けていたいと思います。

 もしあなたが罪を犯したとしても、あなたが人を殺したとしても、あなたが廃人同然の精神になってしまったのだとしても、かつてのあなたに私が甚く励まされた事実は、けっして消えはしないから、あなたの行く末がどんなに悲しくても、どんなに憤りたいものだったとしても、私は、あなたを嫌いにならないよ、と、宣誓のように、毎日の祈りのように、自戒しています。

 私も、きっと、息をするように誰かを傷つけていて、そのたびに、私を無条件に愛する人を、悲嘆に暮れさせているのかもしれない。そのことは、まるで自分のつむじを自分で見つめることができないように、私には知覚不能なことだと思います。

 だからつまり、何があってもあなたを嫌いにならない、と誓うのなら、あなたに知覚不能だと思われることを、たとえ怒られてもいいから、あなたに嫌われてもいいから、伝える勇気を、持たなくちゃいけないんだと思いました。それはきっと思想の押しつけじゃない。でも、思想の押し付けと、伝えなければならないこと、の境界線上を不安定に揺蕩う行動なのは違いない。

 何があっても、何も言わない人には、愛してる、なんてことばを言う資格はないのかもしれない。いい格好をして、自分だけ安全圏にいて、何を言っても誰にも届かない、無力な臆病者なのかもしれない。

 洞穴から脱したい。頭だけが大きくなって、気持ちだけが肥大化して、なのに自分の身を守る殻からいつまでも抜け出せない今から、墮胎しなくちゃいけない。