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天才少女と集中の海原

詩の解説 善意の拒絶/博麗霊夢


 作品について何もかも説明するのは野暮だが、何も説明しないのは意思を感じ取られにくい。芸術家だって講評の壇上に立たされるし、その時に作品について説明する必要がある。説明の内容・やり方の良し悪しはあるだろうが、説明とは作品において付き物だ。それは時に深みや考えのきっかけを鑑賞者に与える。
 そんなイメージで、自分の詩について、俺自らの視点で、ある程度の説明を加えたいと思う。
 俺はこう思って作った、という話をするが、読者がどう思って読むかをコントロールできるわけじゃない。俺の言っていることと、あなたが作品を読んで心から思ったことが相反していたとして、どちらかの主張が正しいとか間違ってるとか言うつもりはない。
 『あなたが見たいものが あなたが見たい景色が 世界そのものだから』という詩を書いたことがあるが、突き詰めればそういうことだ。

 だから、俺の説明は、適当に、そうなんだ〜、と思って、好き好きに読んでほしい。もし俺のこの説明がきっかけで、作品に対する視座や感慨が新たに得られるのなら、これ以上に嬉しいことはない。



解説

 俺自身の非社会性や反社会性について、言い換えれば素っ気なさや無愛想さ、付き合いの悪さについて書いている詩、だと俺は思っている。
 俺には、息を止めて水底に潜るように、全神経を集中させ、酸素への希求と闘いながら、物事に向き合う瞬間がある。その時間はなるべく他の邪魔が入ってほしくないし、自分自身の欲望(腹減った、予定がある、遊びたい、など)にさえ妨げられることを拒む。
 それは特に、創作や鑑賞行為の最中に起こることが多い。どちらかというと、「今から潜るので精一杯息を吸い込みます」という準備はなく、気付いたら息をするのを忘れているほど、感動や感慨のほうが先にある状態。
 感動というのは創作において技術と同等かそれ以上に重要なもの、という言葉がある。思うになぜ感動が重要かと言うと、感動が賞味期限付きのナマモノであることも左右していると思う。それは求めた時にすぐ訪れるものではなく、訪れたと思ったらなるべく早めに閉じ込めておかないと、感慨は去ってしまう。別のことに意識が持っていかれて、はじめて抱いたときの感動の鮮度が少しずつ落ちていく。そうなってから制作を始めるのでは、多くの場合、遅い。
 感動を冷凍保存し、ケージに閉じ込めて展示しておけるのなら、生き急ぐ必要もない。水面から顔を出して、呼吸を十分に整えてからもう一度潜ればいい。しかし、感動は逃げてしまう。放って置くと気配がなくなっていく。だからこそ、そのことについて書いて、それについてなんとか書き切れたという新たな感動の記憶が生まれるまで机にしがみつく。そうすると、鮮度の高い作品が出来上がる。
 俺は作品づくりとはそういうものだと思っているし、作品づくりに限らず、世の中の物事のいくつかはそういう性質を持っていると思う。ひらめきや気付きとかも、そういう性質がある。だからこそ、集中している人は、ときどき他者を寄せ付けない怖さを発揮することがある。

 博麗霊夢とは二次創作において天才として描写されることの多い、人間の巫女である。通常ならば妖怪に虐げられる側の人間という種族でありながら、妖怪や神、霊などを調伏し、騒ぎを収めるだけの力を持っている。それは東方Projectの世界である幻想郷において、誰にでもできることではない。霊夢は才と寵愛に恵まれた類まれなる少女であり、幻想郷という人間と妖怪の楽園を取り持つ調停者である。

 その人柄は大らかとも気ままとも、時には短気とも言えるが、一つ言えるのは、切迫した必死さや欲望をあまり頻繁には感じさせない人柄を感じる。賽銭を求める貧乏巫女というイメージが二次創作作品の一部においては付き物だが、個人的にな博麗霊夢像は、叶わないことに頓着しすぎない、焦燥を感じさせない、というイメージが強い。最新作の『東方獣王園』において、特にそのことを感じさせる。
 東方Projectシリーズのもう一人の主人公とされる、人間の魔法使い、霧雨魔理沙と比較して、霊夢は天才、魔理沙は秀才として描かれる二次創作が多い。ただし魔理沙は、ある種の人間らしい焦燥感や欲求に従った勤勉さを携えているように見える。一方の霊夢からはそれを感じにくい。力を強く求めずして、結果的に力を得たようにも見えるのだ。それは努力なく手に入れた天才と言うつもりはない。努力も犠牲も労力もある。
 ただ、強制せずとも、息をするように、自然と、その努力をしてしまう、それが天才なのだと思う。

 俺にとっての博麗霊夢像を形作った名作『明治XX年代の想像力(著:芦山)』を参照すると、博麗霊夢の類まれなる才と、それに伴う少女時代がありありと描かれている。
 力ある妖怪の興味を引いている光景、人間には余りある力によって世界の神秘に迫ろうとする場面。それはまるで孤独で、ひとたび振り返れば退屈で、通常の人間とは言葉の通わない寂しさなのかもしれない。


 俺は、博麗霊夢の少女時代に、俺が今もよく見る「集中の海原」があったのではないか、と思えてしまう。それは誰の干渉も許さない、閉じた熱中と夢中。力を得てなお、より力を求める様、その過程に他者など要らない。そういう時分があったように思えてしまう。
 そしてそんな性分は、東方Project本編の時系列では、かつてあったものとしてある程度消えているのだと思う。彼女には否が応でも知り合いがたくさんいて、自身の居住地である博麗神社にて宴会を開く場面も少なくない。それは集中のために他者を遠ざけるだけの人間ならばできないことだ。他者を集める会など、個人の集中を妨げる要因ばかりがあるのだから。
 つまりは、博麗霊夢は、集中への希求を手放せたのかもしれない。彼女は大人になりつつある。他者との関係性の中に、自分の希求を眠らせることができる。そして、それは眠らせているうちに、彼女自身の記憶からも忘れ去られるのかもしれない。

 だが、俺の個人的な経験として、俺は未だに集中の海原を求めている。仕事の時間や、他人と一緒にいると決めた日には他人の都合を優先することが多いが、ひとたびその場が終われば、自分の集中のために時間を使う。それは未だに消えない癖であり、これなしでは心のなかに澱ばかりが溜まって、人間関係が心底厭になってしまう。
 だから未だに、俺の中から集中の海原は消えていない。たった一人の時間を求める希求は、俺の根っこにある。

 もし、博霊霊夢もそうだったら、話ができるかもしれないな、という想いで書いた。俺は創作のキャラクターが、俺と会話のできない世界に行ってしまうのがとても嫌なので、そういう自分への引き寄せを行ってしまう。それが嫌な人もいるかもしれない。だが、俺にとっては、現時点で、これが最も納得の行く博霊霊夢像なのだ。

 集中の海原に、望まずとも自然と浸ってしまう、そんな純粋な天才について綴った詩。そしてその感慨は、天才故に共感し得ないものでは、決してない。