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棄郷と、空っぽの胸のうちと、生への渇望

自作詩(東方Project二次創作)

 地上を跳ねる弾丸/鈴瑚



解説:

 鈴瑚りんごは月の民に使役される兎『玉兎』である。また、玉兎の中でも地上調査の任を与えられた先兵である。
 東方Projectにおける『月の民』は地上を嫌う。地上の穢れを嫌う。穢れとは、寿命、死、血など、生命に関わるもの。月の民は永遠に近い生命を得て、地上から逃れている。
 地上に降りると穢れに触れてしまう。穢れに触れたものが月に帰ると、穢れを持ち込んでしまう。したがって、月の民は基本的に地上には降りず、地上へ向かうのは玉兎の調査部隊だけ。地上を偵察し、月に向かうものがいないか、月への侵略の兆候がないかを探る。中には潜入任務と地上での戦闘が要される危険な部隊もある。
 それは片道切符の任であり、ある意味では鉄砲玉だ。

 月の民に比べ、玉兎は穢れに無頓着だったり、非常に俗っぽい性分であることから、鉄砲玉というほどにシリアスな状況ではないかもしれない。だが結局、俺は、俺が彼らの状況ならば、という自己投影によって詩を描いてしまうところがあるから、この詩は全体的に、地上へ送られた玉兎の境遇が俺自身ならば、という投影によって生まれている。
 月の民が地上に対して持つ「穢れ」のイメージ、その印象を間近にしながら生きてきた玉兎が、月の民から地上行きを宣告されたとき、彼女らは何を思うのだろう。


 自己啓発のような話になってしまうが、コンフォートゾーンという概念がある。能力、環境、待遇、人間関係などが急激に変化すると、人は元いた状況に戻ろうとする、という話だ。あるいは、長らく停滞した状況にいると、それら状況の変化、すなわち刺激を求めることも人間にはある。快適な領域であるコンフォートゾーンから一歩抜け出した「学び」の領域をラーニングゾーンと言い、さらにそこから大きく抜け出した、心身に負荷をかけてしまう状況をパニックゾーンと呼ぶ。
 ようは、人間には変化や成長を求める性分と、実際にそういった環境に適応する能力がありながらも、急激に変化をし過ぎると過大なストレスがかかって活動が厳しくなってしまう性分の二つがある。どっちか一方にしろよと思いたくなる気持ちもあるが、仏教の教えによると人間は中道、すなわち極端を避けることでしか真理を得られない、とするらしいから、その時々によっての中道すなわちラーニングゾーンに居続けることが、よりよい生活に繋がるのかもしれない。

 しかし、現実の状態を常にラーニングゾーンに置いておくことは、多くの人の生活においてままならない。肉親や友人の状況、自分自身の健康、人生におけるイベント、衣食住、天変地異など、様々によって否応なく、人間を取り巻く環境は「ちょうどいい変化」を通り越して「急激すぎる変化」を齎していく。あるいは、何も周囲で起こらないとき、内心は刺激を求めてそわそわして、普段通りに振舞えないこともあるだろう。そのバランスをちょうどよく齎せる状況、そこに常にいられる人は、極めて稀有だろう。
 誰しも、誰かや何かとの別れを経験する。何かを辞めたり、あるいは続けなければならない状況に置かれる。それは時に、身を裂くように痛く、後ろ髪を引かれ続け、それでも、拒否のしようがない。そういう経験が、常ではないにしろ、何度かは、人によっては何十回も訪れることになる。

 俺にとってそういったパニックゾーンになる出来事といえば、平凡かもしれないが、新卒の会社員になって働きに出る時だった。住み慣れた実家を離れ、二つ跨いだ県の社員寮に移住し、知人の一人もいない環境に行くことになった。もう成人していたから、家を出る当日まで何の気も起きないように思えたが、いざ当日、親の見送りで地元の駅から出る電車に乗って、もう、こみ上げる何かを堪えきれなかった。それは慣れない土地への不安でもあるし、これまで育ってきた町への希求でもあるし、親への感謝でもあった。友人はいて、夢もあって、それでも、慣れない土地、初めて得る身分、知らない人々、といった様々な状況によって、俺の内心は快適から抜け出して、ある意味の混沌に追い込まれたのだと思う。残ったのは不安と感謝と、熱を求める両手だけだった。
 その後も何度か、その時の親にあたるような、何か大きな背中や後ろ盾を失ったような感覚になる出来事があった。これまで自分が気付かず、当然あるものとしてよりかかっていたものが、急になくなるような感覚。それは自分自身ではないのに、自分の一部がなくなってしまうような、錯覚じみているが恐ろしい感覚だった。
 きっと、俺の負うべき責任を、俺の知らずのうちに負ってくれていたものが、なくなって初めてそうだと認識できたのだ。現代社会の人間は、多かれ少なかれ、人がつくったものや人が維持しているものに大きく依存して生きている。資本経済もインフラも税金も社会保障も教育も就職制度も、みんな誰かがつくったもので、しかし何も考えずに享受している。そういう地盤がひとつなくなったとき、それは自分の肉体でもないのに、酷く不安に襲われる。そういう恐ろしさ。人生の分岐点には、責任を負ってくれたものを喪失する出来事がつきものなのかもしれない。

 また、俺は去年、自分のことを心から助けてくれた先輩が、周囲のあらゆる人から疎まれて、とうとう居場所を追われてしまう出来事を経験した。俺はどっちの人とも話す必要があったから、先輩の言っていることの正しさと、周囲の人の言い分の、どちらが正しくてどちらが間違っているのか、それを吟味することにずいぶん疲弊した。少なくとも、先輩が当時行き場を失くした俺を助けてくれたのは事実だし、よくしてもらった。腹の立つこともあるが、感謝していることが多くある。けれど、俺が信頼し、俺をいつも支えてくれる人たちが、先輩の行いをどうしても許せないようだった。俺は、助けてもらった恩もあるから、許そうとして、実際許せていた。でも周囲の人は、いいやおそらく普通の社会としては、当然許せない一面を持っているのが先輩だった。
 これが正しいと思い込もうとしたことが、ある土地や人においては間違っていると言われたとき、自分の地盤が揺らいで、俺は思考能力もとうに狂った人間で、俺の言うことなんて何も信用ならないんじゃないか、と思ってしまった。そのことで、ずいぶん苦しんだ。足場がなくなっていくようだった。誰もが地に足つけているなかで、俺だけが着地点の見つからない浮いた存在のようだった。


 俺にとって月を追われた玉兎とは、棄郷の人だ。地上は穢れているという価値観で生きてきて、なのにその地上に送られてしまう。
 地上が穢れているという価値観を肯定してきた人は、その時、どういう理屈を持って、故郷を去ればいい。二度と戻れないかもしれない片道切符の旅路に、どう整理をつけて臨めばいい。

 根強い価値観を放棄しなければならない、その状況におかれた人間は、その後どこに飛んでいくのか。開き直るのか、復讐心を抱くのか、物事の認識を捻じ曲げるのか。俺には予想ができない。俺も、以前の俺では想像できないような思考をして、たくさんの色眼鏡で視界を張り付けて、ここまで来てしまった。そうしなければ、納得して生きることができなかった。
 だけど土台、人間は、自分で自分に責任を持って生きるものだと思う。そうでない生き方もできるが、価値観や他人の道理に自分の身分や権利を委任して、そのことを認識もせず自分の権利の一部として主張するのは、俺は、間違っていると思う。いいや別に、間違ってすらいないのだが、単純に、自分で背負って、自分でやりきらないことには、面白くないと思うのだ。思うようにやらなければ、ただ他人に思ったことを体現されるだけでは、俺は面白くなかった。その面白さのために、数々の価値観を得て、棄てて、時に身を裂かれるような気持ちになって、その果てでこれはと選んだ責任こそが、それでも生きていてよかった、という感慨を懐かせるのだと思う。

 長くなるが、拙著の一幕から引用する。

 このことから人間社会では心の役割を個人から別のものへと移管する動きが盛んである。その対象は社会機能や科学理論、技術、あるいは余力のある優秀な他者などだ。たとえば民主主義。これは見事に心の役割を果たしている―――この主義思想に意識的にであろうと無意識的であろうと合意し生活する個人は「全体の合意をもとに物事を推し進めるべき」という考えを自然のうちに身に着ける。無意識のうちに習得し刷り込まれる。この考えは裏返せば「一人ひとりの心の裁量権を分散する」あるいは「個人による断定が採用されにくい」と云ったやり方だ。責任を分散するやり方であり個人の裁量権を、必要とされる能力を、それを発揮する箇所を切り詰めることで心が負う負荷を減らすことのできる取り組みである―――「全体の合意をもとに物事を推し進めるべき」という言葉を盾に、たとい知識や知見を持っていなくとも、他者の意見に委ね慮ることが許されるし、そうやって他者の発言や意見を、自身の意見や発言を置き去りにして求めるといった行為がただただ自然な方法として機能する。物事への断定を避ける、ことが。物事への意見を個人という根拠で持たなくていい、私たち「民意」に任せればいいんですよ。そういった方便が可能になっているのだ。民主主義における合意とは、最終的に物事を決めるのが個人の意見ではなくその集合、言い換えれば多数決によって形成される民意が裁量権を持つことだ。もはや物事は、個人一人ひとりの手から、個人一人ひとりの心から、遥か遠くに離れている。

 そうして民意は、人々の仕事を奪った。互いの共通項を見出すことを、見いだせない共通項も存在することを、社会的仕組みによって人間の思考から取り去ってしまった―――かくして人々の心は失業した。しかし失業の果ては労働の必要がないユートピアでも、安楽椅子に座して終生を迎える安寧でもない。明らかに解決していない諸問題が目の前に横たわりながらも、個人の心は民主主義の名のもとに無視される―――票の集まりにくい諸問題とそれに対してこうしたいと願う心は、多くの他者から、ましてや民主主義から、取り立てて考慮すべきものでもない、取るに足らないものの烙印を押される―――たといその主張が、その心を持つ者にとって間違いのない真実と声高に発するに足るものであって、ぜひとも一度試してみたいと希求するものであったとしても。

 自身の感性に対する自信の復活には、役割を喪失した心に対する仲介者が必要だ。傷ついた心への仲介者が必要だ。
 それは彼らの痛み悲しみを理解できる者が最も適している。痛み哀しみを理解できる存在とは、他でもない「似た境遇に打ちひしがれた別の心」だ。周囲との摩擦を解決できず喘いだ心そのものだ。


 かつての価値観を育んだ『月』を追われ、弾丸の如く片道切符の任に着き、そこで生きるために数々の矜持や執着を切り捨てて、誰も予測のつかない方向へと跳弾する。その跳弾さえも、私は私の責任で背負っていく。それがたぶん、これまで私に報いてきた様々な人や道理に対する、最大限の奉仕になる。だから、折れずに進むしかない。棄てた、あるいは棄てられた故郷を見上げて、これまで自分の代わりに責任を負ってくれたものの偉大さと、これから自分が責任を負わなければならない心細さに追い立てられて、それでも、前を向けなくても、足だけは進んでいる。

 東方Projectの玉兎や鈴瑚のイメージとは離れてしまったかもしれないが、俺が月と兎を描くなら、きっとそういう偏った視座になると思う。現にそうなったのが、この詩なのだ。


片道用の翼を 広げて飛び立つ僕の
楽しみで 眠れない夜さ
僕らのガラクタ星を 旅立ち目指すは コロナ
満月、横目に そら行くよ