見出し画像

毎日投稿って本当のところ、どう思いますか?

 最近は自作した詩の解説と題して毎日投稿のエッセイ記事としていたが(ここ二週間くらい)、今日は久々に、純粋な、自分と自分の思考についてのことを投稿しようと思う。
 言うなれば、毎日投稿というものを二か月ほど続けてきて、少し考えることがあって、それをなるべく真面目に書きたい。

 ここで、既に俺にとって問題が発生している。
 この記事を書き始めた現在時刻は22時46分。俺は7時起き8時出発で仕事からの21時帰宅の平日を送っていて、その中でエッセイの毎日投稿をしている。さらに先週初めに某流行り病を患って、熱は引いたものの未だに淡絡みの咳と鼻水があって、常に息が苦しく、投薬治療を続けている。そんな中で、エッセイの毎日投稿をやっている。詩もXに毎日投稿している。何なら裏で、毎日1つ以上は面白い記事と作品を一つずつ読んでリアクションを示す(無造作に読むの禁止、最初から最後まで意義を感じて読めるものを見つける)、というタスクも自分に課している。そのうえで、再来月に出す新作の同人誌の原稿作業をして、そこから少し先に出す長編小説の原稿を書こうとしているのだが、もう、目に見えて分かるように、手が回っていない。体調が悪くなくても、これをずっと続けるのは無理だ。何か、本当は明け渡してはいけない、内容の質というものを天秤にかけないと無理だ。そう肌で感じている。

 そもそもなんで毎日投稿なんてやっているんですか、誰かに命を握られているんですか、という問いがあるかもしれないが、まあ、命を握られていることはない。強いて言うならば、俺の中にある強迫観念が、俺自身に「書かなきゃ死ぬぞ」と脅して回っているだけだ。
 それにありがたいことに、本当にありがたいことだが、少しずつ投稿した作品にも反応がついてきた感触がある。Xに投稿していた詩をpixivにも投稿し始めて、Instagramにも新作のものを少しずつ出し、色んな場所から様々な反応をいただいている。以前とは数が違ってきたし、pixivならばスタンプの反応も得られて、単純ないいねとは違った感触がある。そしてこのnoteでも、手ごたえのある反応をいただけることが増えてきた。

 そして少しずつ心の余裕ができてきたから、記事なり詩なり、創作しているものの質をより高めたり、より反応をもらうために何をするか、ということにも目が向けられる。記事や作品を読み、感想を書き溜めて、また新しいものを書く。このサイクルを構築すれば、最初は何の反応も得られなかった壁打ちも、次第に人の生きている場所へと到達して、スノーボールのように拡大していく、そういう未来が描けた気がした。たとえ障壁や悩みに直面しても、結局はその繰り返しなのだと。だから、このまま続ければいいと。

 が、しかし、話は冒頭の問題に戻る。毎日投稿(つまりは毎日製作)と毎日読み続けるという二輪を回し続けるとき、俺の生活には明らかにゆとりがない。プライベートは限界まで削り、娯楽に繋がるものはほぼすべて遠ざけ(ゲームも全部アンインストールした、一年半以上続けていたものも……)、今の生活を保てる限界まで時間を見直したが、それでも、もうこれ以上時間を生み出せない。作品を書く手は止まらないのだが、作品が出来上がるまで俺の時間が持たない。

 そうなると、二つしか選択肢がない。
 本業の素行を悪化させるか(トイレに籠って書くとか。真面目に働いている職場の人に申し訳が立たないと俺は思う)、睡眠時間を削るかである。
 これをより汎化して表現するなら、つまりは、これ以上、これだけのタスクで毎日投稿を続けようとしたら、何かの質を下げるしかないのだ。
 本業の質を下げる。対人関係の質を下げる。その代わりに、作品に向き合う時間を捻出する。
 あるいは、睡眠時間を削る。その代わりに、作品をつくる時間を捻出する。しかし、それは確実に、作品の質に影響する。もう寝たいという希求と抗い、まともに働かない頭で、手を抜かずに毎日続けていられるほどの胆力は、おそらく人間ならば持ちえない。俺は超人ではなくて凡人以下だと自覚していて、然るに、睡眠時間を削れば、間違いなく手を抜き、作品の質は落ちる。


 さらに、俺にとって恐ろしい事態が想像できるまでに掘り下げよう。
 俺はよく、頻繁に、好き好んで、他人の作品の表現を引用したり、既存の楽曲の歌詞を引用することがある。それも、自作の同人誌やインターネットに公開している記事の中で、堂々と引用する。

 ↑とかもう、歌詞をそのまま掲載しているし、

 ↑とか、章ごとに他人様の楽曲の歌詞を載せている。

 それでも俺は、下記の記事に書いた理屈によって、このやり方を押し通そうとしている。

 全文が俺にとって重要なことなので引用ができないが、極めて簡略的に要約すると、
 ・著作権法第32条に従い、"引用"の範囲で著作権のある歌詞を掲載する。
 ・引用とは、著作権法第32条にあるとおり、下記の要素が必須である。
 (1)他人の著作物を引用する必然性があること。
 (2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
 (3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
 ・歌詞の翻訳行為はいわば二次創作であり、二次創作者にとっての表現行為でもある。それはこの世に確かに存在する何かを「在る」と主張することであり、無造作に唾棄されてはならない。

 何かを引用して持ってくるとき、俺はその引用元から多大なインスピレーションを受けている。それは最早、これまでの考えを打ち砕かれるほどの、あるいは、もう絶望して棄ててしまえとぶん投げたものを諦めるなと言われるような、つまりは生き方の在り様が変わってしまうほどの衝撃を受けたものたちばかりで構成されている。それを見てしまったら、書かずにはいられない。作らずにはいられない。そういう感慨ばかりで、俺は書いている。
 その感慨を最大限に押し込めた何かを作る、そのために翻訳だったり引用をしています、という論理が、俺の中にはある。

 歌詞翻訳のnoteを見た人には理解いただけると思うが、翻訳部分よりも解説や余談の部分の方が遥かに多い。翻訳部分の構成要素を説明するために、俺のすべてを擲っている。これは最早、翻訳記事というより、俺の話をしている記事群だ。翻訳ではあるが、翻訳から逸脱した何かだ。
 そこまでしないと、俺は、他人の褌でやる資格はないと思ってやっていた。何かを擲って、全身全霊をぶつけたという軌跡を一片でも残さない限り、「他人が権利を持っている創作物を引用する」という行為をする自分を許せない。そういう、三顧の礼というか、自分の中での落とし前というか、そのために、全身全霊をかけてきた。
 引用させてもらうために、あなたの作品に殺されたのだということを証明するために、自分の中身を裂いて見せていた。そういう記事群だった。

 これは俺にとっての翻訳活動とはそういう姿勢だった、というだけの話であり、万人や宇宙にとっての正解の話ではない。ましてやすべての創作物に、そういう鬼気迫るものが必要とも限らないのだろう。
 だが、俺の中には間違いなく、優先度のかなり高い事項として、この考えが存在している。

 それでも、毎日更新というものを行い、自分を削りに削って、もう削れないという状況に立ったとき、明らかに、質を犠牲にしてしまうような時がある。
 眠い、頭が痛い、飯もまだ食べてない、風呂もまだだ、明日の仕事に障る、何なら明日の記事の質に障る、だから目の前のこれを早く片付けないと、という思考回路のときに、早く目の前の仕事が片付く方法が思いついたら、もうそれに飛び込んでしまうのだ。

 俺は前述のとおり、多くの創作物において引用という行為を使っている。毎日投稿しているエッセイでもそうだ。昨日の記事でも、その前の記事でも、引用をした。それは著作権法第32条に則るならば、「自分の著作物が主体であること」が必要だ。
 つまりは、自分の書くものの質を、自分の尊敬する著作物に勝るとも劣らないという域にまで高めなくてはならない、と俺は考える。
 
だがすべてを削った凡人の俺の脳裏には、早く終わらせないと、という希求が毎秒毎秒反芻して、その決意を忘れさせてくる。そして、引用をするという行為だけが残る。
 
その結果、まるで、自分の作品の質は十分に高められていないのに、良いものを引用することでよく見せようとしている、そんな作品が生まれるような光景が見える。


 それは俺には許せない。どうあっても、許せない。


 少し引用をする。
 画像生成AIには賛否あるし、その主張や起こる出来事もかなり先鋭化してきた部分もあり、この記事にも様々な反応がある。
 ただ、俺は絵を描くという活動を中心にやっていた時期がある。その中で「トレパク」「盗用」という問題は、体調を悪くするくらいには悩み込んだ。未だに絵を描こうとすると、どこまでが盗用で、どこまでがリスペクトなのか、を考えてしまう。
 そして何より、上記の記事の下記の文言が、俺に様々なことを思い出させた。

絵描きは長い時間をかけて技術を磨きます。そのため自らのスキルに誇りを持ち、スキルを失いたくない大切なものと思えるようになります。なので、同じ技術を修練している他のクリエイター、その結晶である作品を尊敬し、自分の権利を守ろうとするのです。
正直なところ、僕は画像生成AIが登場するまでは下積みや努力なんて効率が悪いんじゃないか?と思ってたんですが、これらの時間や努力があるからこそ、己の技術に対する誇りを生み出すんだなぁと考えを改めました。その誇りがあるから、他者に迷惑をかけたり、嫌がることはしません。そうやって、これまではモラルが保たれていたんですね。

 モラルという言葉に期待を求めすぎると、人によって守ろうとするラインは違うので、苦しい諍いになることもあると思うが、あくまで俺は、俺自身に課すモラルとして、この文章を契機に、今一度考えることになった。

  俺はもちろん創作の天才ではない。なぜ天才ではないかというと、何かを模倣せずに創作できたことが一度もない。何かを創るとき、既存の、俺の眼を焼くような鮮烈な作品のことを、忘れて描くことなんて一度もできなかった。だから俺が創作するとき、いつも考えが付き纏った。俺は彼らのことをなぞった劣悪な模倣品を作っているだけではないか、よしんばその模倣の完成度が上がったとして、それは模倣の域を出ず、然るに俺の創作行為など一片も価値がなく、ただ真剣にモノを作るひとの誇りを盗んでいるだけなのではないか。
 いいやそうではない、そうでは決してないのだ、と言えるだけのものを見つけようとしたとき、俺が世にぶつけられるものは多くなかった。数少ないが俺が世の中に示せるだけのものは、熱意、そしてそれを証明するだけの何か、それだけだった。翻訳記事の夥しい文量も、絵を描くときの偏執的な描き込みも(一枚の絵に30時間くらいかかる。もっとかける人も当然いるだろうが、俺の中では常に限界に近い)、俺が、自分が持っているものをなるべく総て捧げようとした結果だ。これが熱意です、こうなるほどに、世の中の作品に焦がれてきたのです、そういう主張をするために、自分をなるべく限界まで追い込んできた。
 俺の場合、自分が描いてきたという誇りよりも先に、俺が信じた偉大な作品たちの威光に誇りを感じていて、その誇りが偽りでないことを証明するために、必死で描いてきている。


 俺がここ最近、随分悩んだのは、この全身を擲つほどの熱意が多くの場合において見向きもされないことだった。閲覧数も伸びない、コメントもつかない、まるで児戯か何かだとしか思われていない、そう思えてしまう。
 俺が毎日投稿をするのは、見向きされるための手段の側面が一つ大きい。もし、質を担保したままで毎日何かを生み出すことを続けられるのなら、俺にとってそれは最上の活動だろう。それに、毎日何かを出し続けるというのは、何も書けない日を生み出さないためにいい抑止力になる。そう考えて、俺は毎日投稿を行っている。
 (Xの詩については例外で、11月に始めた時点で100個以上ストックしている。が、noteのエッセイは、最近は毎日1記事ずつ書いている。ストックしていた時期もあるが、毎日決めた時間にやらないと本筋の制作から逃げる言い訳になっている部分もあったので、ストックをやめてしまった)

 だが、そういう意図で始めた毎日の活動が、俺にとっては絶対に捨てられない熱意を擲つようなことになって、あまつさえ引用元よりも程度の低い作品で終わらせようとしているのなら、それは俺にとって許せないことだし、犠牲にしてはならないことだ。
 質を維持して毎日投稿できるならそれに越したことはない。だが、引用元よりも質の低いものを量産し続けるだけならば、そんな俺は示すべき敬意を忘れていて、なけなしの誇りさえも棄て去っていると言わざるを得ない。


 これは強迫観念と捉えられるかもしれない。けれど俺にとっては創作において何より重要なもの、それが、今まで触れてきた作品への敬意と、それを示すだけの創作であることに変わりはない。


 質を維持したまま毎日投稿をしたいが、それが無理な日に質を落として無理に投稿するのはやめたいので、少し、毎日投稿について再考させてください。「やめる」と言い放つまでは続けますが、それが明日になるかもしれないし、案外まだまだ続くかもしれません。が、何より、これを書き終わって、もう、24時過ぎですので……。


 俺は毎日の小さな達成感のために、全身のすべてを懸けてはじめて認められるだけの何かを棄ててしまっていたのかもしれない。それは錯覚だろうか。それとも、俺の夢見てきた数ある偉大な創作物も、やはり全身全霊の賜物なのだろうか。
 俺は、願わくばそうであってほしい。
 だから、あくまで毎日投稿をするためではなく、作品をよくするために自分を賭するべきだと思うのだ。今は。朝目が覚めると考えが変わるかもしれないが、今はそう思う。明日もそう思っていて、明後日もそう思っていたら、真剣に考えたい。



 末筆

逃走には二種類ある。
目的のない逃走と、目的のある逃走だ。
一般に前者を浮遊と呼び、後者を飛行と呼ぶ。
君の俯瞰風景がどちらであるかは、君自身が決める事だ。
だがもし君が罪の意識でどちらかを選ぶのなら、それは間違いだぞ。
我々は背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ。

空の境界 - 俯瞰風景

 俺が思うに、俺は罪の意識、すなわち「誇りある他人の創作物を模倣している盗人」という罪の呵責によって、作品をずっと作ってきた。それで、少ないながら、人からの喜ばしい反応も得られた。もしその罪の意識が俺に最大の感慨を与えているのなら、俺にとってこの罪の意識とは、俺の行く先を決めるだけの力を持っていていいと思う。その意識を克服するだけの何か、つまりは自分も創作者だと認められるだけのものが作り上げられたその瞬間だけに、宿る本物がある。
 もし、その本物が、偉大な創作物と創作者たちにも宿っている、優れた作品をそうたらしめるだけの要素なのだとしたら、これ以上に嬉しいことはない。いいや、そうだと信じて、俺は書いていた。その気持ちが折れた結果が、毎日投稿なのだと思う。それは悪いことじゃない。拘り過ぎるのも、偏り過ぎるのも良くないから。でも、自分が一番、本当に一番、捨てたくないものを捨ててしまうようなやり方は、たぶん間違っている。
 この罪の意識は、俺にとって一番だろうか。あるいは一番に準ずるほどに大切なものだろうか。


 末筆の末筆

 この記事では功罪の「功」の部分を書けていないなと思ったので、そこは素直に表明しました。起きている時間のほぼすべてにおいてサボることがなくなって、そこは本当に、毎日投稿に感謝している。
 ただ、この記事自身でさえ、「毎日投稿する」という縛りがなければ、もっと明瞭な趣旨の、もっと複雑な内容の、もっと熱のこもったものにできるんじゃないかという予感がある。
 毎日投稿によって得られた功罪を理解して、次にこの手を打とう、というアクションにつなげられたのなら、その先でより求める創作サイクルが得られる可能性はある、と思う。