かつての無垢は流れゆく
自作詩の解説
置き去りのソレイユ/大妖精
妖精は東方Projectにおいて自然の力の象徴であり、不滅の存在である。春の妖精であれば季節を経ると鳴りを潜めるが、次の春になれば元気を取り戻して咲き誇るように振る舞う。
季節とは一年が巡ればまた帰ってくるものである。気候によって気温や時期の長さなど特徴が失われることこそあるものの、一度過ぎ去って香りさえも残らなくても、ほとんど必ずと言っていいほど、1年後にはもとに戻っている。世の中、そうやって巡り回るものばかりではなく、一度逃せば一生涯巡り会えないものもあるが、失ったようで巡りまわってくるものもまた、存在するのだ。
たとえ消えてしまっても再生するもの、失われたように見えてどこかに生きていて、いずれ帰ってくるもの。それが東方Projectにおける妖精なのだと俺は捉えている。
この詩は「いずれ巡ってくるもの」の一例として、無垢・純粋を取り上げている。しかし、無垢や純粋はどこに巡りまわるかというと、別の誰かのもとに巡っていくのだと俺は考えている。言い方を変えれば、ある一人の個人にとって、無垢だった時期や純粋だった時期は、決して戻っては来ないと考える。
汚れを知らない子どもの頃に戻りたい。何も知らなかった子供の時分に戻りたい。知ることやできることがこんなにも苦しいのなら子供のままでいたかった。
そういう希求は人生において溢れている。知らずのうちに享受していたもの、その重みを知らないからこそ、純粋な笑みと素朴な目線を持てるのかもしれない。
神様は子供にしか見えないから、という台詞が最近読んだ漫画にあったが、神様のような存在をひたむきに信じ焦がれ続けられたならどれだけ幸せだったろう、と思うことがある。
しかしそれは、信じ続けることの罪に無自覚な無我夢中状態であり、他人の迷惑や衝突を顧みない、狭い視野での希求だと、大人ぶった俺は冷たくあしらってくる。その理屈も分かるが、信じ続けられるものがあったならよかった、というどうしようもない寂しさが横たわり続けているのも、この人生において確かな感慨だ。
この詩は別れの宣言だ。かつての日々に置き去りにした、しかし未だに時々取り返したいと思ってしまう、そんな無垢の日々への惜別を告げるものだ。
お前たちとは二度と会えないのだろうけど、きっとお前たちは、幼い誰かに宿って、その人にとってかけがえのない体験となるのだろう。そしてその人が純粋を失っていくとともに、またお前たちはその人にとって二度と取り返せなくないものとなって、しかしまた別の誰かへと移っていくのだろう。
無垢という名の妖精がいたならば、それはきっと、幼心のまなざしでしか見ることのできない、人生で一度きりの、神様なのだろう。
向日葵色の向日葵、というフレーズは、オカメPの楽曲『向日葵色のソレイユ』のタイトルから取っている。知る限り、どのアルバムにも収録されていない楽曲だが、公開直後に聴いたときからずっと好きで聴いている。
この詩を書いていたとき、文章の全体に色が欠けているような気がして、何か色付けたいが、大妖精というキャラクターは統一した季節感や自然物の情報がないキャラクターだからと困っていたところ、頭の中に降って湧いてきたのがこの楽曲のサビだ。
失われゆくもの、失ったものに対して、どうか去らないでくれ、もう去ってしまって取り戻せないなら、幸せな思い出と共に眠りたい、というような歌詞だと俺は思っている。