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捨てなくてもいいよ

自作詩の解説

 スノウフレイク/チルノ

 昨日の大妖精の詩にて、無垢や純粋とのお別れを描いた後に、無垢や純粋のようなものから別れられない、という真逆の詩を書いた。
 真面目な人が見たら、2つの詩で矛盾した考えを描いていて、倒錯した作品だ、と思うかもしれない。だがようは、考え方や価値観の違いなのだと俺は思っている。

 無垢や純粋への未練がありながらも、いずれ前を向きたいと思っている人には、大妖精の詩『置き去りのソレイユ』に共感できるかもしれない。そして、無垢や純粋への希求が、前を向くことよりも大きな感情になっていて、もはや未来なんて見れなくてもいいから戻りたい、でないと辛くて仕方がない、という人は、チルノの詩『スノウフレイク』に優しさを見出すかもしれない。
 そのどちらもに理解を見いだせる人は、きっと、前を向きたいと、辛いから戻りたいが同居している人であり、矛盾する想いを内に抱えている人なのだろう。それは、断定的でなく、弱い人かもしれない。決断のできない、鈍い人かもしれない。だが俺は、矛盾して決断ができない人こそ、理性によって決断を保留し、いずれ確かな答えを見いだせるであろう、辛抱強い人だと信じている。

 この詩の話をするならば、「葬儀」に関する俺の見解を記しておきたい。
 葬儀とは、残りの人生を故人に囚われた時間にしないよう、遺された人が故人との感情に整理をつけ、生きていた頃の思い出に見切りをつけるための儀礼でもある。俺は物心ついてから誰かの死に目に遭ったことがなくて、葬儀については想像を巡らすことしかできないのだが、もしかすると葬儀には、葬儀をしたからにはその後、故人との未練を徐々に断ち切って、前を向くべきだ、という圧力があるのかもしれない、と想像している。それは、同じ故人を偲ぶ人々であったとしても、向き合える人と、向き合えない人で、考え方が変わってしまうものなのだと思う。
 向き合える人は、向き合えない人が向き合えるように手助けをする。
 向き合えない人は、向き合わないと、と思いながらも、心底では手放したくない希求がどうしようもなく根付いている。向き合えない人とは、ずっと抱えていたい人でもあるのだと思う。
 だから、前を向けない人と、前を向ける人が、同じ故人を思うとき、その価値観においてうまく折り合いがつかなくなることがある。

 つまりは、大妖精を見た、前を向きたい部分の俺が書いた詩が『置き去りのソレイユ』であり、チルノを見た、思い出をずっと忘れたくない俺が描いた詩が『スノウフレイク』なのだと思う。
 あの妖精たちが、俺なんて忘れてどこか必要な人のところへ巡って行ってほしいという気持ちと、思い出ごと氷の世界に閉じ込めておきたいという気持ちが、俺の中に共存している。

 かつて俺の中にも芽吹いた熱意。みっともなくても目的を達するために走り続けた日々。あの情熱よ再び戻ってくれないか、それすらもないなら俺はもう。そういう想いを年に何度か繰り返してる。
 しかし、そうなって心から追い求めることが、新しいものと出会う契機になったりもする。だから、俺は、かつてあったものとは無理にお別れしなくていいと思う。それが自分の根幹に強く根ざしていて、捨ててしまうには空洞が空きすぎてしまうものならば、もういっそ、その思い出に蝕まれながらも生きていけよ、そう思う。それはいつか、否応なしに、あたらしいものを眼差すための活力になってくれるよ。