見出し画像

夢を追う、が逃避になるとき

自作詩の解説 逃避の精算/霧雨魔理沙


 霧雨魔理沙は類まれなる努力家の人間である。妖怪退治の巫女として恩寵を受けた博霊霊夢とは異なり、霧雨魔理沙は人間の多くいる里の出身で、にも関わらず人里離れた魔法の森に一人で住み、魔法使いであるための探求と鍛錬を続けている。東方Projectの世界において、人間から魔法使いになることは、途方もなく特別であり、そのための探求を必要とする。
 望んで孤独を選び、これこそはと決めた物事に注力する様は、博霊霊夢の回で述べた「集中の海原」を想起させる。俺にとっては博霊霊夢と同様、霧雨魔理沙もまた、誰からも妨害のされない状況を好み、みずから望んだ事柄をひたすらに突き詰める性分があるのだろうと思える。それはいつだって孤独でいたいわけではなく、望めば人を探して森を出ればいいのであって、孤独をつくったり崩したりできる状況こそが、彼女を魔法使い足らしめるだけの努力を形作っているのだと思う。

 これだけ書くと、望んで孤独を選び、一つの物事に対して没頭する天才少女と呼べるかもしれない。しかし俺は、博霊霊夢に比べて、霧雨魔理沙に、どこか秀才じみた要素を感じてしまう。それはよく言えば努力家なのだが、別の側面を見れば、彼女の辛い境遇が見えるようにも思える。少なくとも俺は、同じ立場なら苦しくて仕方がないだろうな、と思えてしまった。
 俺の中の霧雨魔理沙像は、努力することを頑張って選び続けている人だ。それは、魔法という自身の最大の関心に心血を注ぐことによって、それ以外のことを得る機会を失っていることに、ひどく自覚的で、そしてその自覚を押し殺そうとしている、そんな苦しいさまだ。

 霧雨魔理沙は原作において、彼女の生家とされる霧雨道具店を単身飛び出し、魔法の森での生計と生活を打ち立てることで、集中と孤独を得た。それは彼女にとって、長年憧れてきた魔法使いへの夢をこれ以上なく目指すことのできる環境であった。
 だが、長年共にしたものはこの夢だけではない。飛び出したいと願い実際にそうした生家と人間の里でさえ、長年の生活を共にしてきた。なまじ、普通の生活を知っているのだ。
 夢などなくとも穏やかな生活、力などなくとも健やかな人間関係、その多くを人間の里で経験してきたはず。それをいきなり断ち切って、社会との関わりを極めて薄めた環境に飛び込むのは、一種のホームシックのような、帰りたい、という気持ちを、霧雨魔理沙の中に生んでもおかしくないと俺は思う。
 夢への希求と、かつていた場所の温もりを求めることが、どちらも同時に存在してしまって、その人を引き裂いてしまう。どちらも捨てられないが、どちらかを許せない状況にあるとき、人は滅茶苦茶なまでに苦しむ。

 その衝突に向き合い、弁証法のような解を見出して前を向けたら、理想的なのかもしれない。悲しいのは、そういう衝突に答えを見いだせず、上手く向き合えなくて、どんどん逃避してしまう状況の多いことだ。
 衝突の苦しみに耐えられず、酒に逃げる。遊びに逃げる。眠りに逃げる。あるいは最大の関心に向き合うことさえ、そういう自覚から逃げる手段になってしまうことだってある。そういう自分に気づく。それでも直視を避けて、より直視が辛くなっていく。そうして、もっとも集中したい物事にも目を向けづらくなるほど自覚の声が大きくなる。次第に耐えきれなくなる。そして関係ないものをたくさん取り入れる。痛む心を埋めるように放り込んで、気づいた時には、望んだ生活や夢とはかけ離れた自分になってしまっている。

 それこそが逃避の精算である。
 だいいち、人間社会から逃避して自分の夢に逃げ込んだのだ。そこでもまた逃げてしまったら……最初に逃げたときからの辻褄が、筋が、通らなくなってくる。そうして、自己嫌悪あるいは視野狭窄な開き直りに塗れた、アンバランスな人間になってしまう。

 皆様が想像する、あるいは東方Projectの原作にいる霧雨魔理沙は、こんな夢の泥沼に嵌まり続けていることはないかもしれない。挫折や踏み違えがあっても、短期間で気づいて、方向修正が可能で、然るに、俺が想像するほどに、逃避が長引き、関係ないものに自分が埋められて重症化することは、実際の霧雨魔理沙には起こり得ないのかもしれない。
 そう思うのだが、俺は自分の経験上、俺がこの立場なら、ぜったいこう思うだろうな、というのを重ねてしまう。

 ようやく思ったが、今年の9月から作り始めたこれら詩は、俺のエゴイズムを多分に含んでいる気がしてきた。それが吉と出るか凶と出るか、読まれるかよまれないかは、今のところわからない。


 最後に、俺の中の霧雨魔理沙像の集大成のような漫画がある。焦燥に呑まれる等身大の努力家が描かれていて、俺はすごく好きだった。