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自己との対話

 ソクラテスが毒杯を飲んだのは「悪を為すよりも為される方がいい」という信念を持っていたからである。その根底には、悪を為す自分とは一緒に存在することが出来ないという判断があった。善を為す自己とは対話出来るけれども、悪を為す自己とは対話出来ない。それは悪を為した途端に、その自己の主張が虚無に帰すからである。良心が破壊されるからである。
 私達は孤独の中で自己と対話する。孤独は孤立ではない。孤独という一人きりの状態で自己と対話することは、思索とも言う。孤立はそれとは違い、多数の中で一人きりであると感じている状態である。したがって自己と対話する余地はなく、良心もなく、思考することは出来ない。自分を偽ることでもあるから、そこには無思考という凡庸な悪が存在する。
 当然、そういう状態の時には悪を善と言い切ることが可能である。善には愛だけでなく理性も必要であるが、悪とは理性の欠如であるからだ。私達は、自己との対話の中で理性を養う。アーレントの言葉によれば、「考えなければ人間じゃなくなる」からである。それは、全体主義の台頭とホロコーストを経験したアーレントの深い思索が詰まった言葉でもある。
 無思考とは自己との対話の欠如であり、人間らしさの欠如でもある。それは容易に悪と結び付き。良心を見失う。私達は悪を為そうと意志するのではない。自分の行為に理性が伴わない時の行為を悪と呼ぶのである。良心が存在しない時の自由な行為を悪と呼ぶのである。ソクラテスは、自己の良心を失うのを恐れたから、死を選んだのだ。
 善には思考による創造があるが、悪とは善の欠如であり、理性の欠如でもある。もちろん、そこには独創性のかけらもない。だからこそ、アーレントは「凡庸な悪」と呼んだのであろう。
 私達は常に自己と対話出来てるのだろうか?凡庸な悪を生み出してはいないか?常に良心と対話しながら生きることを心がけること。そこに私達の心の安らぎが存在する。

        fin

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