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茉莉衣がダウン症の告知を受けた頃の話

親愛なる私の3人の子供達へ

大人になったらいつか笑って読んでください。

茉莉衣がダウン症の告知を受けた頃の話です。

私は子供は神様からの預かりものだと思っている。(私は何か宗教を信仰しているわけでなく、ここで私がイメージしている神様は子供がクレヨンで一本描きたような神様だ。子供の頃信じていた、雲の上に住んでいて、白い長い髭で白い服を着ている。そしてなんでも不可能なことを可能にできる魔法の杖をもっている。サンタさんのような存在、困った時や欲しいものがあれば、いつもお願いしてた。そう!あの神様)

神様が「私はあなたを信じています。あなたのベストを尽くしてこの子に太陽のような溢れる愛を与えてくれ見守ってあげて、それじゃ頼んだよ」と言って神様が私の膝に生まれたての赤ちゃんをそっと置き、私は赤ちゃんを預かったのだ。

その赤ちゃんがダウン症を持っていようと
他の障害を持っていようと
私が悲しむのはおかしい
子供達は皆完璧に美しい神様の
体の一部と繋がっているような存在。

子供は親の所有物ではなく、神様の預かりものなのだから、親は子供に依存しても、大人だからって偉そうにしても、自分の考えや出来なかった希望を押し付けたり、理不尽に怒ってもいけない。


親は自分が何故なぜこの子の担当に選ばれたのか、その理由をシャーロックホームズのように根気よく探りながら、子供サイドで愛を持って寄り添って、子供が辛い時には何が辛いか聞いてやり、子供が困った時には、大人は生きている時間が子供より長い分経験が多いから何か上手く切り抜けられる方法はないか一緒に考えてやるのが仕事。子供が悲しいのなら隣で悲しむ。

一人で歩くのが怖いといえば一緒に隣を歩いてあげればいい。

私は子育てで行き詰まった時に、そう考えるようにしている。
自分の子供だと思うと、どうも周りと比べて同じようにして欲しいとつい型にはめたくなってしまうから。

神様からのお預かりものだからと思うと、自分と子供の間にリスペクトし合えるいい距離感ができて気持ちが軽くなる。

その子のいいところが見えてくる。

私には、男の子、女の子2人の合計3人の子供がいて、3人目の女の子茉莉衣(まりい)も上の2人を出産した同じマタニティクリニックで帝王切開で出産した。

同じマタニティクリニックで3度目の帝王切開の手術での出産という事で、出産後の入院スケジュールの流れも、トイレや自動販売機の場所も、何もかもわかっていた私は、入院中に出される豪華な料理や退院前についてくるフェイスエステ、久々に味わえる一人だけの静かな時間。1週間半の出産入院を、一人で温泉旅行にでも行くかというほど出産の日を指折り数えて楽しみにしてた。

そこには1ミリの不安すらなかった。

生まれてくるのは女の子だと知っていたので、赤ちゃんに退院の時に着せる新生児服を入院用のバックに入れたり出したりしてみては、これを着たらどんなに可愛いだろうなと想像して楽しんでいた。どんな顔してるだろう? どんな性格の子だろう? 髪の毛は明るい色かな?私の考えることはそんなことぐらい。

まさか1000分の1の確率の赤ちゃんが私のお腹の中にいるとは全く想像していなかった。 

予定日より1日早く陣痛がきて、1日早く手術し出産した。

出産して横に置かれた赤ちゃんを見て、上の子供達が生まれた時と明らかに何かが違う、と違和感を感じた。

何か全く違うオーラに包まれている赤ちゃんを見て、
「何かおかしくないですか?」と何度も聞く私に、顔見知りの助産師さん達は「何にもおかしくないですよ、可愛いですね!」と繰り返していた。


産まれた時にすぐ、クリニックの院長やベテランの助産師さん逹は、すぐに皆んな気が付いていたのだと思う。
母親へダウン症の可能性を知らせるにはあまりにも早すぎる。いまお腹を切って縫い合わせたばかりの体にはショックが強すぎるという配慮で、私には最後の最後まで隠し通してくれていたのだ。

次の朝、「生まれた赤ちゃんに何にも体の異常はないけれど、検査のため大きな病院へ今から転院します。その前にお母さんに抱きしめてもらってから行きましょうね」と助産師さんが私の部屋に茉莉衣を連れて来て、茉莉衣を抱いて1枚写真を撮ってくれくれた。質問をする間も無く、その後すぐ茉莉衣は救急車で近くの大きな病院へ救急車のサイレンとともに運ばれていった。(その時助産師さんが撮ってくれた写真が一番上にある写真です。よく見ると茉莉衣が笑っているように見えるからとても神秘的。私の宝物の一枚)

その後私の病室に訪れた院長先生の顔からは、いつもの陽気さは消え、話しにくそうな感じで、私はここのクリニックで入院したままで、大きな病院には傷がもう少し良くなって歩けるようになってから、外出届を出して赤ちゃんに会い行ったり帰って来たり往復することを勧めてくれた。
大きな病院は何人もの相部屋だし居心地が良いところではないからオススメしないと。

しかし私は心配でたまらなく、みんなが私に隠していることは一体なんなのか知りたくて、頼み込んで次の日の朝、私も茉莉衣が転院した病院に転院することにしてもらった。


マタニティクリニックの一階の待合のソファーで、タクシーを待っている私に一人の助産師さんが「エコーでわかることがあるのに気がついてあげられなくてごめんなさい」と座っている私の膝に手を置いて泣いていた。何かよくわからないけど大変なことになってしまったと思いながら、タクシーに乗って病院へ着き集中治療室へ茉莉衣に会いに行った。


その次の日にカメムシのポッキーの日の告知。いや違う、ダウン症の告知を助けることになる。


小さな会議室で、私と私のアメリカ人の夫、2人の小児科医師、臨床心理士の女性、NICUの看護師の女性、6人が長机を囲んで座っていた。そして私からすぐ手の届く距離でテッシュ箱が置かれていた。居心地の悪い沈黙の中、長机の上には何枚もの検査結果の紙が広げられていて、書類には茉莉衣の21番目の染色体が3本あるということ、つまり茉莉衣はダウン症候群であるということが書いてあった。


医師達はとても慣れた様子でダウン症の説明をした。今の所合併症が見つからなかったこと。
しかし甲状腺の病気や首のゆるみがあったり、視力が弱かったり耳が聞こえない可能性があること。そしてそれらはもう少し大きくなって検査してゆかないとわからないということ。

知的障害がおそらくあるであろうということ。

成長とともにいろんな検査をしていかないといけないから頻繁に病院に通うことになるということ。
寿命は医学の進歩により伸びており大体60歳と言われていること。若年性認知症になりやすいということ。

健常者の子供に比べてゆっくりと成長をすること。最終的な成長の具合は個人差や発達障害が合併しているかどうかにもより、成長してみないとわからないこと。


ダウン症の子は優しい子になること、ダウン症の子は生まれた時からダウン症だから自分がダウン症だから悲しい辛いと感じないこと。

周りが表情で隠しでも人の感情を鋭く読み取る能力があること。ダウン症児のいる家族の団結が強くなり幸せそうな家族が多いこと。

ダウン症は病気ではなく、個性であること。
そして正直言ってダウン症について世界中の医師や研究者からしてもまだまだわからないことだらけであること。

「あまり先の未来のことを心配せずに1日1日を生きることに集中して子育てしたらいい。お母さんの太陽みたいな明るい笑顔が、子供にとって一番の栄養ですからね」と言われたの覚えている。


その後医師はトリソミー21やエキストラクロマゾンなど私の聞いたことのない英単語を使って夫に英語で説明をしていた。
その声が私には水の中で音を聞いているように聞こえ、うまく聞き取れなくなっていったのを覚えている。

まるで水槽の中に捕らえられた魚のように私はその部屋にいた。

水中で私はダウン症は個性なのかと、ハーフでダウン症、日本ではものすごく個性的な子になるだろうなと思っていた。


「退院は順調にいけば11月11日になります」
一人の医師が夫に「ドゥ ユゥ ノウ ポッキー ノ ヒ?」突然「あなたポッキーの日知ってる?」と質問し始めた。


おそらく医師はダウン症の告知が毎日のことで慣れ切ってしまっていて感覚が麻痺してしまっているのだなと思った。この落ち込んだ空気を少しでも明るくしたくて、ポッキーの日と言っているのだけれど、
その医師の明るさはこの空間では一人、空回ってしまっていた。まるで蜘蛛の巣に自ら引っかかってしまったカメムシのようになっていた。


今の私なら「へー!ポッキーの日なんですか! 知らなかったなぁ、それじゃ退院の帰りにポッキー買って帰ろうかな!」なんて言えるんだけど。


その時は私にはこのカメムシに構う気力なんて少しもなかったのでもう放置するしかない。同じ部屋にいた人も同じように思っていたかもしれない。

もうこんな空気読めないカメムシなんて蜘蛛にぐるぐる巻きにされて食べられてしまったらいいと。

あれ?おかしいな僕の英語が通じてないかなと言う感じで
医師はもう一度細かく違う言い方で根気よく夫に英語で説明を続けていた。「赤ちゃんの退院の日は11月11日で1が4つあるからポッキーの形みたいで日本でポッキーというチョコレート菓子があって、あっ!食べたあことある?ポッキー?」

何故かものすごく目の前のアメリカ人に、ポッキーの日を教えたい、動けば動くほど蜘蛛の糸に絡まってもう自由に身動きが取れなくなってしまったカメムシ。

その日本のチョコレート菓子と茉莉衣のダウン症の関係を考え、一体この日本人医師は僕にこの場で何を伝えたいんだ?とより深く考えすぎて混乱している夫。

今あの光景を思い出すと吹き出して笑ってしてしまうのだけれど
その時は全く笑えなかった。

ちょっと助けてくれないかな?という目線を送ってくる夫とカメムシ。下手に触ってしまうと次はもっと悪臭を放つ可能性があるので、私は二人にできる限り目を合わさないようにして、壁に少し傾いたかかっていた、秒針の音が妙に大きい安っぽい掛け時計の針を放心状態でじっと見つめて泣いていた。

カチカチカチカチ時間はいつだって前へ未来へ前進して動いている。

リズムを刻み続ける秒針はドラムや心臓の音にも似ていた。

私も時の流れに飲み込まれ癒されて状況に慣れてゆくのだ。
そしていつかそれがなんでもなくなって、それが当たり前の生活になってゆく。


神経質ないつもの私なら、その時計の傾きが気になって無性に直したい衝動に駆られ、立ち上がって真っ直ぐにしたのだけれど、

その日の私は腰の力が抜けて椅子にくっついてしまったように体の力が抜けてしまって立ち上がれなかった。傾いたままでいいや。


強くなろうと無理をしてはいけない。
強くなる必要はないからだ。でも自分は弱いと隠れ逃げ回り続けていても前進はない。

ただ現実を真っ直ぐに受けいれ順応するのだ。

変化に適応できる者だけが生き残れる。


きっと沢山の両親にダウン症の検査結果の説明を繰り返してきた小児科の医師にとってみたら、私のリアクションはごくごく見慣れた母親の反応であったのだろうと思う。ただただ泣き崩れて絶望真っ暗闇になった。

想像していた出産とは違ったこと、突然全く知らない世界へ足を踏み入れてしまったことへのショックと予想が全くできない今までと違う子育てへの不安と恐怖に震え上がりパニック状態になり泣いていた。


未来を先走りして考えてはいけないと言われたのに、私は未来を何十年も先走りし、勝手に妄想してより深く落ち込んで泣いていた。

上2人の子供たちに将来迷惑をかけてしまうのではないか?彼らに重荷を背負わしてしまった。ダウン症の兄弟がいることで二人が好きな人と結婚できなくなってしまうのではないか?赤ちゃんは話す事ができるのか?将来結婚できるのか?子供を持てるのか?自立することができるのか?仕事はできるのか?私と夫が死んだ後、一人ぼっちになってしまうのではないか?

自分で作り出したネガティブな妄想の連打の攻撃を受け、私は落ち込んでいった。

落ちに落ちて、地面を掘りどんどん下へ下へ地底を掘って降りて行き、日本からオーストラリアまでたどり着いていた。


オーストラリアで穴から顔を出した私は、コアラとカンガルーに不思議そうに見つめられながら、まだ自分の作り出した真っ暗な幻覚に飲み込まれ絶望していた。

その時は聞こえなかったけれど、今ならコアラがこう言っていた声が聞こえる。(なぜか関西弁)「まだ赤ちゃん0ヶ月やん、3日前生まれたんやろ?そんな遠い未来のこと何もわからへんやん!」

そしてカンガルーはこうだ「人生な、みんな想定外の連続やねん!赤ちゃんの未来やってそうやんか、どうなるかわからんて、ええ方向の想定外のことが起こるかもしれんやん。今からお母さんが枠にハマった古い考えで、勝手に子供達の将来決めつけて絶望してたらあかんわ。子供達からしたらホンマ余計なお世話やで!そんなんな、時間とエネルギーの無駄、無駄!せっかくオーストラリアまで落ちてきたんやったら、観光でもしてきい。楽しんどいで!そんでまた落ちてきた穴さっさと登って赤ちゃんとこ帰ってやり!」

でもその時の私には音ひとつなく光ひとつ見えなかった。


ダウン症告知説明の後、「何か質問はありますか?」と聞かれ、
私は新しい情報量が多すぎて頭の機能が停止してしまい何も質問できなかった。

私が何も質問できないでいると、「旦那さんは?」と聞かれた。
夫は難しそうな顔をして少し考えた様子で
「2番目の娘(当時2歳)が、ものすごくおてんばでいつも転けるのだけど、娘は大丈夫かな?」と医師2人に質問した。
医師2人も、「えっ!ダウン症についての質問を振ったはずなのに、真ん中の子がよく転けること質問した今?まじで!?」と言わんばかりに

医師2人は、夫の突然の変化球の質問に、どこかのドジな人が丸ごと1個落としてしまったあんぱんをベンチの下で見つけた鳩のように首を突き出して「2歳児はまだ体より頭が重いから転けるんじゃないかな?そんな心配しなくてもいいと思うよ!」と親身に答えていた。

カメムシといい戦いをする私の夫。

夫の場違いな質問に、泣いていた私もさすがにその時は吹き出して笑ってしまった。私が笑うとそこにいたみんなが笑った。


そして最後に臨床心理士の先生が、人間が人生で10年ぐらいかけて、なだらかに起こる精神の成長の変化が私にはこの入院中から数ヶ月くらいかけて急激に大地震のように起こっていくと説明した。

「交通事故と宗教勧誘には気をつけてください」とアドバイスをもらった。


そして彼女の言うとうり、私が今まで40年間かけて積み上げてきた価値観やエゴで作られた高い塔がいっぺんに倒れ、全て風で吹き飛ばされて、何もない更地になった。

もう一度一から地面を少し掘り返して下水道のパイプを繋ぐところから建築計画し直さなければいけなくなった。


今から思えばベニア板で補強された薄っぺらくおおざっぱに作られた大して素敵な塔ではなかったから、一から建て直すことが出来て直せてラッキーだったと思う。しかも10年かかる改装期間を数ヶ月で早送りできたのだからすごくお得だったと思う。

新たなる塔を製作しながら残りの9年と何ヶ月、全く新しい良い生き方ができるではないか!


この日の夜、私は病院のベットで天使を見ることになる。

この話を私が誰かにしょうとすると、いつも夫が「また始まったよこの天使の話!」と茶茶を入れる。だから今も書いていて夫の声の幻聴が聞こえるのだけれどその声は無視して、私はここに書き留めておかなくてはいけない。


私は本当に天使達を見たのだ。私が見た天使の背中には渡鳥みたいな体の倍以上ある大きな白い羽は残念ながら生えてはいなかった。


その日の夜はあまりのショックで眠れなかった。私は眠剤を飲んで横になっていた。泣きすぎて目が腫れてしまっていて試合後の疲れきったボクサーのようだった。

そしてもう生きるエネルギーを完璧に失っていた。


しかも病院には備え付けのシャンプーや石鹸がなく自分で購入しなければいけなくて、何もかもめんどくさくなっていた私は、病院の1階の売店でボディーソープを1つだけ買った。それで体も髪も洗ったせいで、髪がバッサバサになり雄鶏のトサカのように髪が上に立ち上がり逆立っていた。

出産直前に切ってもらったおしゃれなカットはもう見る影もなかった。


トイレの鏡に映った自分を見て衝撃だったが、もうそんなことなんかどうでも良く、立ったままにしておいた。それくらい脱力感に襲われていた。


それはまるで体の中の部屋の電気が一つ一つ消され続けてゆくような感覚だった。
体の中で40年間、懸命にそして忠実に働いてきた全ての細胞達を、自己中な社長が椅子に座ってくるっと一回転して「もう僕会社やーめた!僕には荷が重すぎるわ!ハワイでも行ってくる」と言って、突然全員を解雇して家に帰宅させ、全ての部屋の電気を消して、アロハシャツに着替えてスーツケースに全てを詰め込んでタクシーに乗って関西空港へ逃げて行ってしまった。そんな感じだった。


体の中も頭も空っぽ。


どんどんと絶望のどん底へ落ちてゆく感覚が心地よく
このまま明日目を覚ましたくないな、このまま消えてしまいたいと目を閉じていると、誰かが私を見ている気配を感じた。

目を開けると7個から13個のくらいのバスケットボールくらいの丸いものが私のベットを囲んで浮いていた。その丸の中は初めTVが故障した様な黒白の荒い砂嵐になっていた。そしてその砂嵐の映像が次第にハッキリとピントが合って人の顔が現れ出した。まず私の右横に居たのは青い目の赤ちゃんだった。可愛いなぁと青い目を見つめていると、隣にもその隣味の違う女性が私を見つめていることに気がついた。ブロントヘアーの30代の女性から、
白髪混じりボブカットのお洒落な感じの70代ぐらいの女性、色々な年齢層の西洋人の女性達に私は取り囲まれ見つめられていた。


ここで通常なら「ギャー!」と叫んで逃げ出したいところなのだけれどもう生きる気力がない私は、なんか見つめられているわ、でもどうでもいいわ見つめたければどうぞお好きにしたらいいという心境にあったのでまったく動じなかった。

すると太もものあたりをたくさんの指でボコボコと突かれる感覚があり私は気を失った。


朝になり昨晩の心の落ち込みは少し軽くなり、気力が回復していた。そして昨日見た人たちはなんだったのか?誰だったのか?考えていた。お化けかとも思ったのだけど、お化けにしてはおかしい。日本の病院で西洋人の女性のお化けばかり集めるのは、非常に困難であるからだ。


そしてあのボコボコと触られたのはなんだったのか?自分で自分の太ももを何度も突いて確かめてみた、突くというよりは、あなた大丈夫?気を強く持って!と沢山の手が私の体に添えられた感触だった。思い返して見たらそんな愛の溢れた体験だった。


私の考えた結果出た解釈はこうだ。私が舞台に立って私の人生を演じている妖艶な女優としょう。場面はまさに娘のダウン症の告知のシーン、
これから茉莉衣ちゃんとの生活が始まる場面で、私は急に「この役は私には大役すぎるわ!」と言って手を額に当てて失神して舞台の真ん中で倒れたのだ。カット、カット!舞台にはベルベットのカーテンが閉まり、観客も騒然とする。

その瞬間もう一つの世界のカーテンが開いて。バックステージ両端で私をずっと支えていた天使達がやってきて、蘇生してくれたのではないかと思っている。

エネルギーを注入され、「あなたはあなたの役を演じきりなさい。足を絡めないようにステップを踏み続けるの、考えすぎてはいけない。ただあなたの役を踊り続けて」と舞台にまた戻されベルベットのカーテンが開き、私にスポットライトがまた当りショーは再開しているのではないかと思っている。


その証拠にその日は重い腰をあげて1階の売店でシャンプーとリンスを買ってまずはこのひどい髪の毛をなんとかすることから始めようと思えたから。


この話は臨床心理士のカウンセラーの先生にも医師達にも話さなかった。話していたら入院の期間が伸びていたのかもしれない。 


自分の感情の潮の満ち引きの変化に注意していれば、きっと「次の瞬間」塩が引いて目の前に不可能と思えた、遠い島へまっすぐと続いた一本の道が浮かび上がる。

人は人生の中で一度は180度価値観が変わるような体験をするというけれど、私の場合この日であったと思う。

この日より前と、この日より後では物質的価値観から経験や感動の価値観へ大なり小なりの方程式が逆転した。

感謝の心がやっと実感できた。前の頃も自分では感謝していると思っていたけれど、今から思うと今までの私はちっとも何に関しても感謝なんてしていなかったのだ。

それに気がつけたことは私にとって大きな変化と成長だった。


茉莉衣ちゃんのおかげで、
本音を話せる療育園の先生方、ママ友もたくさんできた。昔からの友達にも辛いことは辛いと話せるようになった。物欲が減った分、他に痛みを抱えている人に寄り添いたいと思うようになった。

何か今後ダウン症の子供や家族に私ができることは何があるかと考えるようになった。

そして何より茉莉衣ちゃんが生まれる前より私は明るくなり、体の中のダムが崩されたように子供達と大きな声でお腹からよく笑うようにもなった。

今まで簡単な絵本ぐらいしか洋書をを読めなかったが、ダウン症関連の本であればどんなに分厚くてもスラスラ早い速度で読めることには私も夫も驚いた。海外でのダウン症の家族がどんな生活をして、どんな考え方で子育てをしているのか、知りたくてインスタグラムを始めた。インスタグラムを始めて、世界中のいろんなダウン症の家族をダウン症の人達をフォローして行くと、こっちも追われるようにもなりの茉莉衣の成長を発信するようになった。


特に産後私が落ち込んでいた頃、インスタグラムの中の世界中のダウン症の子供達の笑顔、家族の笑顔の写真に私の心は救われた。

そこには人種や文化、宗教の壁はなく、他人とは思えない茉莉衣と少し似た顔つきの子供や大人が幸せそうにそれぞれの人生を精一杯生きていた。突然私の家族が世界中に増えたような感覚に陥った。

ダウン症の人たちは世界に平和と愛と感謝を与えるために、天からの送られた使者ではないかと私は本気で疑っている。

彼らには全ての壁を簡単に取っ払ってしまう、溶かして通り抜けてしまう力があると感じる。


娘が1歳になった時にプライベートであったアカウントを誰でも見れる様に公表した。それは当時の私にとって少し勇気のいることだったけれど、産まれてすぐ告知を受けてたり出生前検査で陽性が出て、私が感じた様に恐怖と不安で絶望を感じているお母さん達のために見つけやすい様にしたかったからだった。


茉莉衣が1才になるまで私は顔見知りの人、知らない人、誰彼関係なく
「赤ちゃん可愛いいですね」と声をかけられたら、

「でもこの子ダウン症なんです」とずっと言い続けた。

自分でもそんなことは言わなくていい、言う必要はないとは分かっているのだけれど、どうしても言わずにいれなかったのだ。誰かに口を押さえられても、それを振り切って言っていたと思う。
きっと自分自身に茉莉衣はダウン症なのだと完璧に頭にインプットするためにしていたのだと思う。もう壊れたロボットのように私は言い続けていた。


夫が一度そんな私を見かねて、「見ればわかるから言わなくていいんじゃないの」?と言ったが、「見てもわからないわよ」!と言い返したくらいだ誰も止められなかった。


私本人ですらどうしたら言わないでいられるのかわからなかった。「私の赤ちゃんダウン症なんです」と言われ


大体の人はびっくりする。一度沈黙して、そして言葉を探す。私はその言葉を待つの繰り返しだった。

「人生悲しいことあるね」と言って下を向く人。
「それじゃ優しい子になるんですね!」と笑顔でとっさにそんな暖かいコメントができたお母さんもいた。療育教育関係の仕事していた人だったんだろうか?
プレゼントですと手紙を添えてヘレンケラーの奇跡の本を私に家のポストに入れてくれる近所のおじさんもいたし、
「高齢出産ではダウン症の出産の確率が高くなることくらいはわかってたことじゃないの、私はどんな子でも大切に育てようと出産前に心の準備をちゃんとしていた」という友人もいた。

「静かな老後を迎えたいから私には無理やわ、よくやるわね」という幼稚園のお母さんもいた。

同じマンションに住んでいる60代くらいのイラン人の女性は、すれ違ったことはあれどそれまで話したことが全くなかった。

ある日買い物帰りにエレベーターで乗り合わせた時に、「赤ちゃんが可愛いわね」と言ってくれたので、ダウン症であることを私が言うと、彼女が3番目の赤ちゃんを死産したこと、国に帰りたかったけれどもう帰れないことを話し始めた。

私は一時間以上エレベーターを上がったり下がったりして彼女の話を聞いた。私が買ったアイスクリームが全部溶けてしまったけれど、そんなことはどうでも良かった。その日から道で会うと立ち話で話し込むご近所さんになった。


私の住んでいるマンションの清掃をしている私の母と同じ年の女性に「赤ちゃんダウン症なんです」と打ち明けた時は、その日は何も言葉が返ってこなかった。

後日「ちょっと聞いて欲しい話があるのと」と歩いているところを呼び止められ、一番下の息子さんが自殺未遂をして半身不随になった話をしてくれた。私はマンションのゴミ捨て場でその話を聞いている間ずっと、私の目から涙が溢れ続けた。

話が終わると、言葉なく彼女を抱きしめた。そして、私は辛かったね、辛かったねという気持ちで、彼女の少し曲がってしまっている背中をさすり続けた。

「久しぶりに誰かに話したわ」と「話を聞いてくれてありがとうとう」と言われた。


彼女が毎日朝4時頃からマンションの廊下を履き掃除していたことがいつも不思議だった。だけどその日からその理由が私には深く理解できたような気がした。


息子の幼稚園で同級生のダウン症の娘さんを持つお母さんに「生まれた赤ちゃんダウン症やってん」と言うとポロポロと涙を流してその場でそのお母さんは泣いてしまった。その目は観音様のような優しい目をしていた。相手を泣かせてしまったのはその時が初めてだった。そのお母さんは「ごめんね、私が泣いちゃって。私の娘が生まれた時のことを思い出してしまって、もう涙なんて残ってないと思ってたのにまだ残ってたのね」と笑った。


そして2年半経って私は「私の赤ちゃんダウン症なんです」ともう言わなくなった。

最近は私の代わりに茉莉衣がすれ違う人誰彼構わずベビーカーから「バイバーイ!」と言いながら手を振るようになった。

そして手を振られた人は皆、彼女の不思議なオーラに包まれて笑顔になってしまうのだ。

「私の赤ちゃんダウン症なんです」と私はなぜ言わなくなったのか?
「ダウン症。だから、それがなんやねん!」

どうやって、"So What?"それがどうした?の境地に達したのかというと。

茉莉衣ちゃんは世界で一人の茉莉衣ちゃんでダウン症であるという個性も含め完璧で美しく、すべての子供達がそうであるように奇跡的な存在である事。神様が私の膝にこの子をお預けになった、理由と意味を理解し、この子と生きる経験が私の人生にとって、なんて幸運であるか。という事を深い感謝とともにありがたく全てをしっかり受け入れたからだと思う。

幸せはその人にしかわからない。一見外から見ると不幸そうに見えても、当人や家族はものすごく幸せであることがある。その人達だけしか分かち合えない深い愛と経験と感動がある。そんな体験をできることは幸福なことだ。

それとは反対に外から見たら羨ましいほど幸せそうに見える人が、本当は重い痛みを引きずって苦しみながら生きているのかもしれない。

何が幸せで何が不幸になるかなんて誰にもわからないのだ。

前はそんなこと考えたことがなかったけれど、今ではそれが手に取るように感じられ共感できるようになった。


誰だって人生一寸先は闇であり想定外の出来事が人生には起こる。実は髪の毛一本の差で誰の上にもそんな出来事が舞い降りてくる可能性があるのだ。

退屈な毎日は実は奇跡の連続でできていることに、私はやっと気がつくことができた。茉莉衣がやってきてから美しいものはより鮮明に美しく儚く感じる。

笑い合うことのエネルギーのぶつかり合う花火のようなパワーは何よりも勝る!と思うようになった。

私ははっきりと断言できる。私にとって3番目の女の子茉莉衣(まりい)がダウン症であったということは
私の人生で一番ラッキーな出来事だったと。

 
2年半経って私はもう茉莉衣の将来に絶望を感じていない。

立ち直りの早さにオーストラリアで会ったコアラとカンガルーも会ったらビックリするかもしれない。驚きついでに二匹の耳元で囁こう、「私は立ち直ったのではなくレベルアップしてん!すごいやろ?!」と。

そう言いながら将来また想定外な出来事が起き、また落ち込んで私は穴を掘って、オーストラリアまで落ちて行き、コアラとカンガルーに再会することもあるかもしれないが、その時の私は前回よりは放心状態にはならないと思う。

二匹に弱音を吐いて励ましてもらうかもしれないが、その後はアウトバックステーキハウスでブルーミングオニオンをつまみに、コロナビールでも一緒に飲んで、3人で情熱的なタンゴでも踊って「楽しかったわ!ほいじゃね!」と来た穴を登って帰ってこれるような、今の私には落ちてもまた上に飛び上がれる心に大きな強いバネができたと感じる。

もちろん成長とともに悩むことや困ったことも出てくるだろう。でもどうにか乗り越えられるんじゃないかという根拠のない大きな自信がある。

私たちの未来に魔法のようなことが起こりそうで、どちらかというと不安よりずっとワクワクした楽しみの方が大きい。

子供達の心配はないか?と言われたら、もちろん私は自分の死の寸前まで子供達のことを心配するだろう。彼らがどんなに大人になっていてもだ。

きっとそれは世界中の全ての親がそうであるように。


3人の子供達。

自分の好きなことをやったらいい。苦手なことは切り捨てていいわ。それが得意な人に助けてもらったらいい。

時間を忘れるほど自分が好きな事を見つけて、それを見失わずやりたいことを一直線に追いかけて、情熱を持ってやり続けて楽しめばいい。

私もあなた達のお手本になれるように、お母さんはいつも笑ってたなぁと思い出に残る生き方がしたい。

1日1日を前向きに毎日を積み重ねて生きてたらそうなれるだろうか。

私の人生に舞い降りて来てくれてありがとう。

神様この3人を預けてくださってありがとうございます。

個性のまったく違う3人の成長を見守ることが、

私の大冒険であり、奇跡であり、喜びです。

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