どこまで人に見せることができるか

誕生日を迎えて抱負を聞かれることが何度かあり考えさせられることが増えた。

そこで分かったのは一年大人になった自分には別に明確な目標が無いということだった。これは夢がないという意味ではない、自分には幼い頃からの夢、なりたい職業があってそれに向かって努力することが不変的な目標であり今年の目標と聞かれてパッと浮かぶものが何もなかった。そして夢以外に目標を表に出していないということだった。

考えもしなかったことだったが、何度も聞かれると何か19歳の抱負を持ちたくなった。山ほどの課題が残っている、いやギリギリまで残した中でグルグルと考えが巡る。

最終的に辿り着いた抱負は、
正直になって自信を持つこと。

自分は他人に振り回されず正直にやりたいことをやっていると思っていた、好きなことを勉強し自分の中で一貫して関連していることを学び、学校外でやりたい企画に携わったり、好きな時間まで夜更かしして寝不足になったり。しかし、客観的に自分を考察してみると周りからの評価を重視している部分が自分にあると気がついた。

自分は相手のことを考えているようで、相手から見た自分がどんなものかをいつも考えて行動していると思う。他人から見た自分を、自分も他人のように客観的に監視しながら外行きの自分を構築している、そして常に自分が見られたくない、自分の理想と違う部分が出ないように、自分が自分自身を見張りながら言動や行動を行っていると思う。また、何か理想から外れると自分の中にずっと残り続けてしまい、その事実を考察せざるおえなくなる。そこで何かしらの結論付けをし、次回からどのように動くべきかを心の中のマニュアルに足していく。

これを続けているからか、本来の素の自分がわからなくなっている。

自分が本当に素でいられることは少ないと思う。一番素に近いのは自分の弟といる時、二番目が自分の親といる時、三番目は仲の良い友達といる時だと思う。でもどれも本当の自分ではないし、同時に全部本当の自分だとも思う。最近読んだ小説では、日記に本当に自分が思ったことを書き出していて、その登場人物は人に話したくないことでも抱えきれないものは日記に書くと良くなると話していた。(実際その人物は物語の中で最悪の選択をしたので、なんとも言えないが、、、)自分が思うに、こうやって文章を書いている自分もまた違う一面で自分の本質全てを反映していることはないと思う。

ある友達が日記を書いているという。その人は、日記を人前で書いていたり、他の人に読ませてと言われて読ませていたり、自分には絶対に出来ないことをしていた。自分の文章は、実際の友人に見せることはできないと思う。おそらく、自分が作り上げている理想の外面を壊すことになりうるため本当に気を許すか、とても口が堅いかでないとここで書いているような文章は実際の友人に共有されることはないだろう。人に思っていることを公に共有することができる人は凄いと思う。自分には難しい。自分は共有しないが、他の人が自分から見せてくる場合には喜んで読むだろう、少し矛盾している気もするが、そんなものだろう。

つい最近、仲の良い友達が、ある女の子が裏表がありそうでそれが気に入らないと漏らしていた。しかし、自分は一緒になってちょっとした陰口を言うことはできない(自分の中のマニュアルにいつからか追加された項目の一つでもあった)、そこでどんな人も色々な一面を持っているし、それを意識的にコントロールしているのは普通だと思う、そしてそれが悪いとは思わない。自分が良い一面だと感じる一面を、その人が自分の友達には意識的に見せていないのかもしれない。また、自分の友達はその子に敵意を剥き出しで接していることもあるので、その子が自分の友達にに対して彼女のやさしい、心構えていない一面を出していないだけだと思う。

見えていることが全てではない。良い人に見えて悪い人かもしれない。それとも自分に対して悪い人であろうとその人が意識的にそのように接しているのかもしれない。また、良い人の定義は人によって違う。(進撃の巨人のアルミンもそんなことを言っていたことを思い出す)

自己中心的でいることはよくないかもしれないが、相手を本当に理解することは難しい(出来ないと個人的には思う)ので、最終的に自己中心的に行動せざる負えないが、できるだけ周りを見た上でそれらを考慮したのちに自分の行動、そしてどこまで人に見せるかを決めていきたい。

Mia


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