「キムタク」であることと「不死身」であることの相似性―映画『無限の住人』評草稿―

 木村拓哉という人間がいる。アイドルであり、役者であり、モデルであり、バラエティもそつなくこなす、稀代のスターである。

 彼はまた、「キムタク」でもある。それは木村拓哉その人を指すと同時に、抽象化されたイメージをも示す言葉である。

 木村拓哉の主演する作品が語られる際、「何をやってもキムタク」という評価が下されることが少なくない。それは「どんな役を演じていてもキムタクはキムタクだよね」という意味で、彼の演技力の乏しさを指摘するために用いられる。

 しかし見方を変えると、この「何をやってもキムタク」という表現は、世間では「キムタクといえばこう」というイメージが共有されていることの証でもある。つまり「キムタク」は、木村拓哉本人の手をとっくに離れて、抽象的に概念化されているのだ。

 そんな「キムタク」という概念を再帰的に用いたのが、2017年に公開された映画『無限の住人』である。木村拓哉演じる主人公万次は、死の間際で思いがけず不死身の身体を手に入れる。彼の不死身は「X-MEN」シリーズのウルヴァリンに近いが、傷の回復などはウルヴァリンほど早くはない。例えば腕が切られれば、切られた腕を自分で傷口にあてがってくっつけなければならない。

 傷つく度に、そしてその回復を待つ度に、万次は「めんどくせぇ」という台詞を発する。この「めんどくせぇ」が含むのは、怪我をしたらすぐには治らないめんどくささ、死ねないことへのめんどくささである。不死身の身体と言えば憧れるかもしれないが、しかし実際不死身になってみれば、それは「めんどくせぇ」ことの連続なのである。

 「キムタク」も同様だ。「キムタク」並のイケメンになればモテる、なんてこれまでどれほどの男性が考えただろうか。ネット上には彼を中傷する言葉が溢れているが、そのどれも、彼を不細工だとは言わない。その格好良さは、アンチすらケチをつけられない。

 そんなイケメンの象徴であり男性が憧れる「キムタク」だが、「キムタクであること」は言い換えれば「常に格好良くあること」でもあり、常に気が抜けないだろう。そんな究極にめんどくさい役割を引き受けてしまった木村拓哉だからこそ、「めんどくせぇ」という台詞に実感が伴うのである。(※本人が決してそうなりたかったわけではなく、他者から引受させられてしまったという点も万次と木村拓哉は共通している)

 つまり『無限の住人』は、世間が「キムタク」という概念を共有していることを前提に、それをメタ的に捉え返すということを、「キムタク」まさにその人にやらせているのである。そしてその試みは、彼がSMAPを離れて1人の役者になったからこそ、改めて意味をもつ。

 今一度、「SMAPの木村拓哉」でもなく、「キムタク」でもない、木村拓哉を真っ直ぐ見つめ直してみようよという提示を、『無限の住人』から読み取ることができるのではないだろうか。

 

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