私とあなたと私の欠点の話――映画『ファインディング・ドリー』評――

 二〇一六年に公開され話題になった映画の一つに、森達也監督の『FAKE』がある。かつてゴーストライター疑惑で世間を騒がせた佐村河内守氏を追ったドキュメンタリーだが、本当に佐村河内守は作曲ができるのか、耳が聴こえるのか、という多くの人が感心を寄せる部分に対して、本作では答えは明かされない。本作があぶり出すのは、障害かそうでないか白黒はっきり区別したがる、現代社会の不寛容さである。
 佐村河内氏は障害者手帳を持っていないために、難聴でも聴こえるなら障害者ではない、と世間からバッシングを受けた。謝罪会見で通訳を介す前に質問に答えたかどうかニュースで大きく取り上げられたのも、まだ記憶に新しいだろう。
 『FAKE』が提示するのは、障害者とそうでない人々を厳密に区別することの無意味さである。世の中には障害者手帳を持っていなくとも、少し人より聴こえづらい人々がいる。また同様に、車椅子に乗っていなくとも、少し人より歩きづらい人々がいる。彼らを障害者ではないからと、健常者と同じように扱うことを社会に求める現代の不寛容さが、『FAKE』では描かれている。
 障害者/健常者という区別は、障害者ではない私たち、として身体的不自由を持たない人々の多数派意識を構成することにも寄与する。しかし、生きていく上で、なんら不自由のない人間などいるだろうか。
 例えば今この文章を書いている筆者は、軽度の強迫性障害に悩まされている。家の鍵を占めたか、電気は消したか、コンロに火はついていないか、不安で仕方なく、出かける際に必要以上に何度も家の中を確認してしまう。
ここまでではなくとも、生きていて不便だ、困ったと感じる自分自身の特徴を持つ人は、大勢いるだろう。大小問わなければ、ほとんどの人が、なんらかの不自由と付き合いながら生きているのではないだろうか。
 他人と違う、自分の困った部分。それは時になかなか受け入れ難いものである時もある。どうして自分はこうなんだろう、どうして人と同じにできないのか。そんな他人と違う自分の欠点とも言える部分をどう受け入れるか。そんな話を子供向けのアニメ映画としてやってのけた作品がある。『FAKE』と同じ二〇一六年に日本公開された、ピクサー製作の『ファインディング・ドリー』である。
 前作『ファインディング・ニモ』ではコメディリリーフとして活躍したドリーが、本作の主人公である。ドリーは物忘れがひどい。それは忘れっぽいなんてレベルではなく、病的なまでだ。ドリーはかつて両親といたこと、その両親とはぐれてしまったこと、そしてその両親を海中探し回っていたこと、大切な思い出を全て忘れてしまっていた。しかしある日、両親の存在を思い出し、探し出そうとするところから物語は始まる。
 前作の主人公であったマーリンとニモ親子は、両親探しのため奔走するドリーに協力する。しかし道中、マーリンはドリーの物忘れの激しさに苛立ち、ついこう吐き捨ててしまう。
「ドリーは忘れるのが得意だろ」
この言葉は劇中再度登場し、異なる機能を果たす。無事、幼い頃両親と過ごした海洋生物研究所にたどり着いたドリーは、そこで両親が海に流されてしまったきり戻っていないことを知る。失望したドリーは排水口から海に落下し、何もない暗闇の中でパニックに陥る。その時、ドリーは自分に言い聞かせるように何度もこうつぶやく。
「私は忘れるのが得意」
「ドリーならどうする」
 この、「ドリーならどうする」もまた、マーリンのセリフである。ドリーとはぐれて窮地に陥った時、マーリンは「ドリーならどうする」とつぶやき、自分では到底やらない突飛なアイデアでその場を切り抜けた。また海洋生物研究所でドリーを勇気づけるため、マーリンは「ドリーならどうする」とドリーを焚き付けた。「私は忘れるのが得意」「ドリーならどうする」という二つの言葉は、マーリンがドリーに向けて言った言葉であり、この言葉によってドリーはピンチを切り抜けていき、これまで欠点だと思っていたすぐに忘れてしまうという自分の特徴を、自分らしさとして受け入れていくのである。
 同時に、「ドリーならどうする」という考え方は、マーリンにとってはドリー=自分と違う他者を受け入れるために必要なプロセスとしても機能している。ドリーの忘れっぽさ、突拍子もなさをマーリンはどこかでバカにしていたわけだが、「ドリーならどうする」を通して、それを自分にはないドリーなりの良さとして認めていく。『ファインディング・ドリー』が描くのは、自分の他者と違う部分をどう受け入れるか、そして自分と違う他者とどう付き合うかという、誰にでも当てはまる問題なのだ。
 自分の他者と違う点、それは特徴、性格、能力など色々な呼び方があるが、どうしたって気になるし、時に治すべき欠点にすら思えてしまう。しかしそうした自分の他者と違う部分を自分らしさとして前向きに受け入れることができた時、これまで挑戦できなかったことに取り組めたり、できることの幅や可能性が広がっていく。
 しかし自分ひとりでそのような発想の転換をしようとするのはなかなか難しく、簡単にできるものではないだろう。ドリーにとってのマーリンのように、他者と違う部分も含めて、「私」として受け入れ認めてくれる他者がいてこそ、可能になるのではないだろうか。
 冒頭に戻ると、『FAKE』では文字通り社会から排除された佐村河内氏が、妻の支えを得ながらマンションの一室で再び生きる希望を取り戻していく姿が映される。森達也監督は、『FAKE』について恋愛映画だと色々な場所で言及しているが、それは紛れもなく佐村河内氏と妻の関係性ゆえである。佐村河内氏を受け入れ認める彼女の存在が、彼を排除した社会の側にいる鑑賞者の居心地の悪さを緩和してくれる。まさしく人間は、そしてこの社会は、自分と違う異質な他者なしでは成立しないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?