評価される怖さ、それでも堂々と生きねば。
評価されることは、恐ろしい。
最近大学の知人と久しぶりに話した。
そこで学業に自信がないことを吐露したところ、
知人は私を励ますためか、次のようなことを言った。
「Aって、君と同じクラスを取ってたでしょ?そのAが『ミロは賢いけど、予備知識が不足してたんじゃないかな』って言ってたよ。」と。
そのクラスは少し厳しめの教授が教えていたクラスで、そんなクラスを取りたがるのはたいてい自信家か予備知識のある人たちだった。
クラス自体には事前に受講しておかなければならないクラスなどの条件はなかったものの、その集団の中で私の知識不足は目立っていたのであろう。
知人は「賢いって言ってたよ」と伝えたかっただけなのだろうが、私のなけなしのプライドは音もなく崩れ去った。
私はこういう評価の又聞きはポジティブでない限りあまりよろしくないと考えているのだが
そもそも他人は自然と周りの人間を評価しているものである。
私が彼らを評価しているように。
そしてそれを周囲に言いふらすかどうかが愚痴との差だと考えている。
評価のポイントは人それぞれだとは思うが
評価すること自体はとても自然だ。
それでも恐ろしいものだ。
私は知識不足な生徒と思われている!と思っていたし、もう堂々としようと開き直っていたのだが
やっぱりそう言われると傷ついた。
もう大学院に行きたいなんて言っていることも馬鹿馬鹿しくなり、恥ずかしくなった。
知識不足は私の大きな弱点だ。
もっと頑張らねばと思いつつ、一体何から手をつけるべきかもはや分からなくなってしまった。
焦るし、不安も膨らむばかりだ。
夏季休暇が終われば、また私は馬鹿で無知な学生として生活しなければならない。
教授たちがサポートしてくれていなければ、私はとっくに病んでいただろう。
教授たちは私の努力をみて、ずっと高い評価をくれていた。
同情で高い評価をもらっているのではと、時々苦しくなるぐらいに。
私が「足りていない」学生であることは、きっと学生たちより教授たちのほうがよほどわかっていると思う。
にも関わらず、私の馬鹿な質問に真剣に答えてくれる彼らには、感謝してもしきれない。
こんなに良くしてもらっているのに、学生の言葉1つでへこたれている場合じゃない。
教授たちは私が胸を張っていられるようずっと言葉をかけてくれていた。
ならば私は堂々としていなければならない。
わからないことはわからないと言い、必死で学びをつかみ取りにいかねばならない。
毎日毎日へこたれそうだ。
他人の評価が怖くて、努力すら無駄になるのではとしり込みしてばかりだ。
でも評価は1つじゃないし、評価が正しいとも限らない。
色んな評価をそれなりに受け止め、受け流す。
とりあえず、胸を張って出来ることをやる。
堂々と生きねば。
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