小説「下水道管理人、始めました」EPⅠ:下水道管理人、始めました

――穢れを浄化し自然に還す。

そうする事で命の循環を穢れ無きままに保ち、天使は安泰を、悪魔は衰退する。
これが下水道管理人の使命である。

「……、って言うけどさぁ!!」

小さな部屋に不満げな声が響く。
それをなだめるように、小柄な天使は言う。

「まぁまぁ、確かに希望していた上水道管理人にはなれなかったけど、凄く大事な役割だって聞くし」

それを聞いた先ほど不満げに言葉を発していた天使は、ベッドから一気に身を起こし小柄な天使に愚痴をこぼす。

「サリーはそう言うけどさ、あんな穢れの集まる場所……なんか臭そうだし……」

ははっ……、とサリーはどこか困った表情を浮かべる。
その直後、大きな鐘の音が建物内に響いた。教会のベルのようにどこか神々しさを感じる音色だ。

「あ、集合の時間だ。トエル、早くいこう」

サリーに急かされ、トエルは渋々と重たい腰をあげ部屋から出た。
二人と同じように鐘の音を聞いた他の天使たちも、廊下を急ぎ足で往来している。
浮かない表情をしているトエルに、背後から大柄な天使が近づく。

「おう!! 浮かない顔してるじゃねぇかトエル!」

わぁ!! と高い声を出して驚くトエル。
すぐさま振り返りながら腰を入れて拳を突き出す。
目の前には丁度みぞおちに一撃を頂戴した、大柄な天使がいた。

「や、やるじゃねぇか……」

「ふざけるのはそのデカい身体だけにしてよね、バル」

バルの表情を見たサリーは少し心配そうな表情を浮かべる。
溜息をつきながらトエルは何の用事かを聞く。

「あぁ、お前下水道管理人なんだってな」

サリーはそれを聞いて、少し溜息をつきながら

「バル……、浮かない顔をしていたのは、まさにそれだったからなんです」

直後、バルは大笑いしながらトエルの肩を叩く。

「すまねぇすまねぇ! でもよ、うちら天使生で成績優秀だからこそ下水道管理人なんだろ、誇り持てよ!」

そういうバルをジト目で見るトエル。

「そういうバルは、私がなりたかった上水道管理人じゃない」

バルは少し分が悪そうな表情を浮かべる。
サリーが間に入って話していると、廊下の先から少し年配の天使が呼びかけをした。

「もうすぐ時間だ! のんびりしてないで急げよ!」

それを聞いた3人は急いで集合場所へ走り出す。
少し息を切らしながらたどり着くと、そこには沢山の天使生が集まっていた。
集団の前には厳しい顔つきをした、中年くらいの男が仁王立ちしている。
天使生たちはこれから何が起こるのか、という期待から会話が絶えない。

「やかましい!!!!」

一瞬で静寂が辺りを包み込む。
声の発生源は、言うまでも無く集団の前に立っていた男だった。
彼は低くも威厳がある声色で続ける。

「良いかお前たち。今日からお前たち天使生はここを巣立ち、天界を……いや、
 世界を存続させる為の役目に従事する! 開放され、騒ぎたい気持ちも分かる。
 しかし、今はこれからお話なさるジール学長に耳を傾けよ!」

天使生の表情は様々だ。緊張感を取り戻した者、軽く流す者、気を重たくする者。

「相変わらずデント教頭はこえぇなぁ」

バルが呟く。それを聞いたサリーは口に指を当て静かにするように促す。

「ほほ、相変わらずデントは手厳しいのぉ」

デントの後ろから姿を現したのは、その口調に似合わない容姿の整った青年だった。
彼は集まった天使生を見渡すと、一呼吸おいてからゆっくりと話し始めた。

「さて、先ほどデント先生から話があったように、今日から君たちは世界を存続させる役割を背負う。
 どれも必要な役割で、希望に沿っていない配置となった者もおるだろう。
 最初は嫌になるかもしれぬ、いや、場合によっては後から嫌になるかもしれぬ。
 しかし、ふとした時に、その役目を少しずつ理解する時が来るだろう」

その話を聞いてトエルは俯く。ジール学長の言葉が、先ほどの自分の言動に対する事だと
故意ではないと思っていても、どこかそう感じてしまう。

「しかし、気を付けて欲しい。最近どこか天界も不穏な動きを感じておる。
 命の循環を始め、人間が住まう中間界も何か違和感がある。
 自身の身を案じて役割をこなしてほしい。そして危険を感じた時は、
 配置先の天使にすぐ共有する事を意識するのだ」

ジール学長は一通り天使生へ伝えたい事を述べると、右手を空に掲げる。

「今日も我ら天使、そして世界に安泰があらんことを!」


解散となった後、それぞれ役目を担う場所へと担当する天使がやってきて案内を行うとデントは天使生へと伝える。

「そしたらいよいよ私達も少しの間忙しくなるし、一回お別れだね」

サリーが少し寂しそうに言う。

「そうだな、お前たちと一緒に過ごせて楽しかったぜ。行った先でも頑張ってたまに集まろうや」

バルはサリーの寂しい想いを察したのか、再会の言葉で場を和ませる。
トエルは笑いながらも、内心心配していた。確かに望んでいない場所ではある。
しかし、その再開の言葉を自分は果たせるのか、という不安が脳裏を過っていたのだ。

「トエル、いいか」

バルが急に声をかけた。どこか真剣な表情で続ける。

「さっきは辛かったが、お前がいく下水道管理人は花形だ。そして一方で、かなり危険だ。
 どんな危険が待っているのか正直わからん。
 でももし、危ないと思った時、一人でどうにもならないと思ったら絶対に俺たちに言え。
 言いにくかったら、その場所の先輩たちで良い。俺たちを置いておくんじゃねぇぞ」

その言葉は今のトエルには目から温かい何かが流れるには十分すぎた。
サリーもそれを見てそっとトエルの頭を撫でながら抱きしめる。

「トエル! トエルはいるか!」

聞きなれない声色が、トエルを呼んでいた。
きっと役目を果たす場所へ案内をしてくれる天使だろう。
トエルは少し名残惜しそうにサリーから離れると、涙をぬぐって二人に言う。

「二人こそ! 私にここまでしたんだから、会うときに何かあったら許さないから!」

そう大きな声で言うと、踵を返して呼ばれた声のもとへ走る。

「――ありがとう」

そう呟きながら。


薄暗い地下通路をトエルは歩いていた。どこか肌寒く、地上のような温もりや草花の香りとは程遠く、
空気は淀みどことなく嫌な気配をひしひしと感じていた。トエルは先ほど広場へ呼びにきた天使に同行し、
同じ役割を担う天使たちが常駐している部屋へ着いた。ドアを開けると、2人の天使が居た。
そのうちの一人である、長身で銀の腕輪を付けた男がトエルに歩み寄ってきた。
鋭い視線と物理的に見下ろされている圧迫感は、緊張感を生む。
その唇が動く瞬間、どんな言葉を投げかけられるのかと身構えるトエル。

「あら~、その子が今年の若葉ちゃん!?」

一瞬だれが話したのか理解が追い付かないトエル。
しかし何度見渡しても、声を発したであろう発生源は目の前にいる男だ。
よく見ると先ほどの厳しい目はどこへやら、今度は愛玩動物を見ているかのような目つきになっている。

「あらら、シャール副長のお眼鏡にかなってしまったんだねぇ、こりゃ大変だ」

呆れるような言葉を発したのは、もう一人の天使だった。
彼は金の腕輪をしており、どこか幼い顔つき、シャールと比べ華奢な体格をしている。

「ちょっと、それどういう事よ!」

シャールはもう一人の天使に問いただす。
トエルがその様子に驚いていると、それを察してかシャールの言葉を遮るように続けた。

「あぁ、ごめんね。そこの変わった喋り方をしている人がシャール、副長だ。
 僕はマル、ここの隊長をしているよ。」

トエルはそこはかとなく感じていた。この二人から発せられる尋常ではない力と、揺るぐ事のない人格を。

「きょ、今日からお世話になります、トエルです!」

行きたくないと思っていた場所だったが、二人を見て自然と気持ちが引き締まった。
少し堅苦しいくらいの彼女の様子を見て、2人は笑いながら気を使い過ぎないように、と声をかける。

「それじゃさっそくだけど、ここの設備を見て回りながらこれからの事を話していこうか」

そうマルが声をかけ、シャールとトエルの3人で部屋を出る。
マルは部屋を出て早々に、少し申し訳なさそうにトエルに言う。

「しかしごめんね、こんな薄暗くてあまり良い噂を聞かない配属先で」

あまりに直球かつ図星な言葉に、トエルは少し言葉に詰まる。
その様子をみたシャールは大笑いしながら彼女をフォローするかのように

「大丈夫よ、ここに来る人は大体そうだし僕だってそうだったわ。
 かくいうマルもその一人だったと思うけど」

マルは苦笑いしながら肯定する。

「ここで我々下水管理人の仕事と、全体的な概要について説明しておこうか。
まず、大きな話になって申し訳ないけど世界は天界・中間界、地界の三階層になっている。
天界は我々天使が、中間界は人間が、地界は悪魔が住んでいる。
そして天使も悪魔も、人間とは切っては切り離せない関係なのはトエルも知っているね」

問いかけにトエルは返答する。

「はい……、人間の希望は我々そして天界を構成する成分であり、逆に絶望は悪魔や地界を構成する成分になる。
 よって、人間なくして天使も悪魔も存在する事は出来ない……と」

その内容に微笑ながらマルは説明を続ける。

「うん、流石は成績優秀者だ。その通り。そして人を構成するのは魂と肉体だ。まぁ肉体は中間界だけの存在だし、
 一つの生涯ごとの使い切りだね。でも魂は違う。何らかの理由で亡くなると魂は天界へと昇る。
 そして天界にある魂の泉から、魂の海へと流れる。海には沢山の魂が漂い、時が来ると上水道管理人と呼ばれる者達が
 その魂を中間界へ降ろす。すると中間界で新しい肉体に魂が憑依して、新しい一つの個体となる訳だね」

「たしか、中間界には人以外にも沢山の種類の生命があるものの、上水道管理人たちは故意でどの種類を増やすかまでは操れないんですよね」

トエルの問いかけにシャールは関心しながら頷く。

「そうそう、中間界に存在する新規の入れ物の事情にもよるし……残酷だけど、場合によっては種の飽和が激しくて
 中間界的な表現で死産、つまり新規に命の入れ物が存在するにも関わらず天界側であえて命を降ろさない場合だってあるわ。
 私達下水管理人もかなり苦しいけど、上水道管理人もその判断をする時は相当辛いみたいね。
 その状況になってしまった中間界の種たちの事を想うと、尚更……ね」

トエルの心の中でバルの事が過った。彼はこの先、シェール副長が言っていたこの事実を直視する時が来るのだろうと。
自分の身には危険が及ばないが、その立場でありながら自分以外の生命の殺生与奪を握り悲しむ姿を見る事は
自身がズタズタに傷つく事よりも辛い事を容易に想像できたからだ。まして、仲間思いの彼ならば尚更。

「あらやだ、ちょっとシリアスすぎる空気になっちゃったわね。マルちゃん、話を戻して頂戴」

「そうだね。トエル、今のは確かに事実だけど君はまだ初日だ。全てを愚直に受け止めなくとも良い、ゆっくり自分が潰れないように慣れていってほしい」

マルの視線は優しくどこか真剣だった。きっと潰れてしまった天使も、数多く見てきたのだろう。

「さて、全体的な概要はざっと説明したから下水道管理人の仕事についてだ。
 中間界から昇ってきて生命の泉から湧き出た魂は、海へと流れていく。つまり川のようにね。しかし、ここで問題が出て来る」

「穢れた魂も混ざっている……と」

「そう。中間界で何らかの理由……、過酷な生涯であったり悪魔たちの干渉であったり原因はいろいろとあるのだが、ここで想像してみてほしい。
 綺麗な水槽の中に、汚れのついた物体を入れるとどうなるだろうか」

答えは考えるまでもない程に簡単だった。

「水槽の中身が汚れます……、もしその水槽に綺麗な状態の物体があったなら、その綺麗な物体も汚染されるかもしれません」

マルは深くうなずきながら再びトエルを褒める。

「完璧だね! この水槽の事例を魂の海に当てはめて欲しい。穢れた魂がそのまま海へ、すると海が汚れ他に存在する魂も汚染される。
 そして厄介な事に、汚染された魂を中間界に降ろすと結構不具合が起こってしまうんだ」

トエルは少しずつ、空気が淀んできている事を感じていたが話に集中する。

「中間界に存在する新規の魂の入れ物へ魂が定着し難いとか、そういう不具合もさることながら一番まずいのは、
 その魂で生まれた中間界の生命は、とても脆く加えて負の感情を抱きやすい。生きにくくなってしまうんだ。
 これは我々天使にはかなり不都合なんだ」

「トエルちゃん、脆く負の感情を抱きやすい生命が増えると、誰が得するのかしら」

シャールの助言をきっかけに、何かに気が付くトエル。

「――悪魔」

「うん、彼らの力となってしまう。反対に我々天使が受ける希望は減り衰退する。
 だからね、我々下水道管理人はそんなたまに流れ着く穢れてしまった魂を浄化して、綺麗な状態で魂の海に還す。
 そして健全な状態で、上水道管理人が中間界へ魂を降ろせるようにする事なんだ。
 つまり我々は直接的に、この世界を守っている事になる」

世界を守っている、物事の裏を理解して聞いたこの言葉の重さがトエルにのしかかる。

「と言ったものの、さっきも言ったように君はまだ初日だ。それを考えるのはまだ先で良いし、
 まずは目の前の事をしっかりやって、自分が無事でいる事。それを何よりも優先してほしい」

トエルは気を引き締めて、さらに奥へと進んでいく。
すると厳重に管理されている大きな鋼鉄の扉が待ち受けていた。

「ふふ、扉の向こうからちょっと不思議な気配がするでしょう」

シャールが扉に向かって手をかざすと、何か機構が稼働したのか扉が重々しい音を立てながら開く。

「貴方も暫くしたら、この扉を開けられるように登録しておくわね。慣れるまでは基本的に、開錠できる人と一緒に行動よ」

トエルは静かに頷きながら、足を進める。
その空間に入った時、トエルは驚きを禁じ得なかった。

凄まじく広い円形状の空間、その中央にはドーナツのように大きな穴が開いていた。
そしてその穴には、上から下へまるで星空を水にして、滝のようにしたようだった。

「わぁ……」

トエルは思わず口をあけっぱなしにして見とれた。

「星空が、流れている」

それを聞いたマルは嬉しそうだった。

「詩的だね、ここをそう言う風に言ってくれて嬉しく思うよ」

マルが流れるそれを指さしながら続ける。

「これはさっき説明した、これから魂の海に向かう物、そのものなのさ。つまりこの輝き一つ一つが魂だ」

「これが、魂そのもの……、あっ」

「そう、つまりここは同時に穢れてしまった魂の通り道でもある」

その瞬間、シャールが腰を落とし赤色に輝く双剣を構え始め、声を荒げる。

「トエル!ここから出なさい!!」

急すぎる事態に戸惑い上手く動く事のできないトエル。
マルも続くかのように青色に輝く槍を構える。

「だめだ、流れて来るのが妙に速い! 閉じろ!」

シャールはギリッと奥歯を嚙みしめるような音を立てながらも、扉に手を向ける。
扉は再び重々しい音と共に、施錠された。

「トエルちゃん! あなた武器は具現化できるのよね!」

「え、あっできます!!」

トエルは両手を前に突き出し、目を閉じて念じる。
瞼の裏で自身の武器のイメージが浮かび上がって来る。輪郭が鮮明になった瞬間に目を開き武器を構える。
トエルの手には両手斧が握られていた。

「お、斧…!? なかなかイカつい獲物を使うじゃない」

シャールは少し動揺しながらも続ける。

「いい、トエルちゃん! 貴方は戦うのではなく身を守る事だけに集中して!」

言葉を遮るようにマルが言う。

「来るぞ!!」

「――えっ」

一瞬、視界が真っ暗になった。刹那、すぐに毒々しい色を放った球体が流れから現れる。
それは静かに少しずつ、歪に形を変え大きくなっていく。

「どうやら、これは相当な大物みたいだ」

マルが少し警戒を強める。

「よりによってこんな時に……」

眉間にシワを寄せるシャールの前には、人の三倍ともあろう大きさの生物がうごめいていた。
かすかに人型ではあるが、下半身はなく腰から上だけが存在し体中から黒い霧を発しながら、ヘドロ状の身体をしている。

「ヴォヴォ……オ……オボボ……グエエ……」

あまりの醜さにトエルは一歩も動けなくなっていた。
対峙しているだけで敵う相手ではないと弱気に考えてしまうほどに、ビリビリとした圧力を感じる。

「これが……、穢れた魂……」

「オオ……シ…ソ」

不気味な言葉を発した直後、それはトエルに向かって左手を叩きつけてきた。
とっさに斧で防御態勢を取るが、それよりも前にマルがトレサを庇う形で前に立ち、
左手に向かって閃光を伴う一撃を放った。穢れた魂は一撃にひるんだのか、攻撃を中断する。

「大丈夫か、トエル!」

マルの放った一撃から、やはり凄まじい力の持ち主である事にトエルは少し震えた。
恐怖ではなく、隊長格である事に納得できる強力な力。武者震いと似た感覚だった。

「ナ……バ……ババ……ナカ、ウム」

穢れた魂は同時に激しく身体を震わせた。

「また何か仕掛けて来るつもりよ!! 気を付けて!」

シャールの武器を握る手に、一層力が入る。

「まずい!! 避けろ!!」

マルがそう言葉を発した直後、穢れたそれは身体を激しく震わせる事でヘドロ状の肉体をそこら中に飛ばはじめた。
身体から分離した大小様々な大きさのヘドロは、一瞬で硬質状のツララのような形状となり周囲を一気に貫く。

「あっ」

トエルは抵抗する穢れた魂が一瞬、泣いているように見えた。
それを感じ取った瞬間、トエルは危険な状態にも関わらず凄まじい睡魔に見舞われた。
膝から崩れ落ちるトエルを目にしたマルは危険を回避しながらも、彼女を抱きかかえて移動する。

「ちょっとどうなっちゃってるの!? 気絶!?」

シャールは予期せぬ事態に驚きを隠せない。

「わからない、気絶にしては……いや、今はとにかく鎮める事を優先するんだ!」

そういうマルだったが、不安ではあった。隊長・副長の2人だけならまだしも、
原因不明の気を失った新人を庇いながら、この厄介な相手を渡り合えるのかと。


「うーん……」

目を開けると、トエルは快適とは言いがたい気温と湿度に驚いた。
どことなく肌もじりじりと焼けるような感覚がある。強い日差しが彼女を照らしているからだ。
周囲には鉄で出来た何かが沢山あった。

「これは……、車?」

天界で天使生の時、中間界に存在する物や生物に関しても勉強していた彼女は、それが車であると分かった。
そして近くには大きな建物。何かの名前が建物の上部に大きく描かれている。
彼女はそれが看板であると見当をつけた。大きな建物、看板、周囲には車という乗り物。
つまりここは人間たちが多く集まる、それだけ需要がある施設である事がわかった。

「何かのお店かな?」

トエルは周囲を少し散策する事にした。
ふと通りがかった車を見ると、再び彼女は驚く。
窓ガラスに映った自分に、翼が無かったのだ。

「え、えっ翼は!?」

両手を背中に回し動揺するトエル。

「ま、まさか堕天!? い、いや、でもそんな事になっちゃうような悪事してないし……」

しかもよく見ると、衣服も見慣れないものに変わっている。
中間界に関する資料で見た、いわゆる学生服と呼ばれる物に見受けられた。
考えていてもキリがないと思ったトエルは、ひとまずこの暑すぎる空間から離れ
この空間は一体何であるかを理解する事を優先した。
歩けど歩けど陳列されている車。鉄板が反射する光と熱が余計にうっとおしい。

「うーん、やっぱりあの建物に入った方が良さそうかも」

進路を巨大な建物へ変えた時、近くから何か声がした。
トエルは驚き、周囲を見渡す。確かに声を聴いた彼女は、目を瞑りひたすら聴覚へ神経を集中させる。

「聞こえた」

声はトエルのすぐ近くにあった、車の中からだった。
よく覗いてみると、小さな女の子が車の中で泣いていた。必死に窓ガラスや開閉をつかさどると思われる部分を押し引きしている。
トエルはその姿に驚き、窓ガラスに手をつけ声をかけようとした。

「――っ!!」

窓ガラス、そして鉄板の部分は恐ろしく高温だった。
トエルはこの事実から、この子供が恐ろしい状況に置かれている事を察し震えた。

「叫び声すら耳をすませなければ聞こえなく、外側はこの熱さ……どうにかして出さないと」

トエルは武器を具現化しようと両手を前に突き出し、目を閉じて念じる。
しかし武器が具現化する様子はない。

「だめ、どうして!? この世界だから……!?」

トエルは武器の具現化を諦め、周囲に何か車を破壊できそうな物がないか探した。
しかし、きっちりと整備されたその空間には小石ことあれど、大きな石や棒などは全くなかった。

「嘘でしょ、なんでこんなに綺麗に何もないの…!?」

トエルが車の中に目をやると、女の子はぐったりとしていた。
確実に生命力が無くなってきている事が伺えた。
試しに素手でガラス部分などを叩いてみるが、びくともしない。
何も出来ない状況を打破するために、一か八かで建物に何かある事に賭け、トエルは走り出した。

大きなガラス張りのドアに近づくと、自動でゆっくりと開いた。
一歩踏み入ると、そこには沢山の人間が各々自由に買い物や会話を楽しんでいた。
外の灼熱のような気温ではなく、涼しい風が吹いており快適そのものだった。
トエルはこの状況と、刻一刻と終わりが見えている女の子の状態の差に憤りを感じた。

「中はこんなだってのに、あの子は今……!!」

通りがかった近くの男に声をかける。

「すみません! 外にある車の中で女の子がぐったりしているんです!!」

男は突然の事に驚きながら、少し間を置いた後に

「あ、えぇと……そういうのはご両親に言ったほうが……」

信じられない答えにトエルは絶句する。

「あなた!! いま人が一人亡くなろうとしているんですよ!!」

男は厄介事を抱える事が嫌なのか、トエルが声を荒げても芳しくない反応をしている。

「あー、どうしたのかな君たち」

背後から声がかかる。年配ながら少し体格の良い男だった。
暗めの青い、恐らく制服と呼ばれる種類の衣類をまとっている。
トエルはその男に事情を説明すると、血相を変えてすぐに案内を求めてきた。
二人は急いで車へ向かう。建物から外に出た時の熱風と湿度が肌にまとわりつく。

車にたどり着き、男は車内の様子を見るとすぐさま胸元の機械のようなもので会話を始めた。
きっと遠くにいる別の人間と会話するための機械なのだろう。
少しすると、何やら道具を持った別の男がこちらに向かって走ってきた。
恰好は同じである事から、同じ集団に属しているのだろう。

かけつけた男は、特殊な形状をした道具で車のガラス部分を軽く叩いた。
驚くことに、あっさりとガラス部分は砕け散り、そこから内側にある車の出入り口となる部分を操作する。
車の開閉部が動き、女の子が車内から助け出される。

「――っ!」

トエルが女の子に駆け寄った時、直感的に悟った。

(もう、魂が離脱し終える手前で戻せない……)

女の子は息を引き取る寸前だった。

「おい!! 早く救急車と警察だ!!」

制服を来た男が声を荒げて指示を出している。
そんな中、女の子はゆっくり目を開けトエルにむかって静かに語り掛ける。

「……、涼しい……」

トエルはあまりに熱くなり過ぎた女の子を撫でる。涼しいはずはない、きっと閉じ込められていた場所との差で感覚がおかしくなっているのだろう。
女の子の体温を感じ取ってどれほど辛かったか、なぜ救えなかったのか、こんな事をした人間は誰なのか。
様々な感情が溢れすぎて、いつの間にか涙が流れていた。
女の子が虚ろな目を車に向けて言う。

「おねえちゃん……、影に気を付けて……」

トエルは声を震わせながら聞き返す。

「影……?」

女の子はトエルの手を握って、優しい声で言う。

「ありがとう、うれしかった……」

女の子の手の力が抜けた瞬間、トエルの視界は白くなり意識が遠のいた。
あの穢れた魂と対峙した時に意識が遠のいた時のように。


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