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〔小説〕白濁(六)

「煙草、吸ってもいいですよ」
猫背に声をかける。坂井は初めて気がついたように灰皿に視線を落とす。白シャツの胸ポケットから、押し潰れた緑色のマルボロの箱がのぞいている。
「あ、いや、ありがとう」
器用に一本だけ飛び出させて咥え、100円ライターで火をつけた。
「吸わないんですか? ええっと」
「田崎です」
「タザキさん」
思い出せなかったことに動揺するでもなく言う。
「人の名前、覚えるの苦手で」
「でも、セリフを覚えるのは早いんでしょうね」
「ああ、その話」
銀色の安っぽい灰皿に灰を落とす。
「別に、役者をやってるわけじゃないんですよ」
「たまたま人が足りなくて。ほんとは裏方」
「ふーん、でも、お芝居はやってるんですね」
「そう」
ため息のように細く長く煙を吐き出す。
「まあそうしてずるずると、大学に残っているわけですよ」
さっきから全然、串には手をつけない。
「食べないんですか。冷めちゃいますよ」
「だって、あんまり旨くないから」
カウンター席なのに声も潜めずに言う。
「学生街のチェーン店に、味とか求めてもしょうがないじゃないですか」
皿に残ったつくねに手を伸ばす。
「食べちゃいますよ」
「どうぞ」
冷え切ったつくねは、確かにタレの味しかしなくてぼそぼそしていた。

「タザキさんって、誕生日いつ」
「7月ですけど」
「それじゃあ、誕生日にはもっと旨い焼き鳥を奢りますよ」
そう言いながら煙草をもみ消した。
「それは、ありがとうございます」
きっと、実現しない社交辞令なんだろうと思った。勘定をして外へ出る。坂井が少しだけ多く支払った。
「地下鉄ですか?」
と坂井が聞く。
「いいえ、うち、この近所なんです」
「それは羨ましいですね」
「坂井さんは?」
「西武新宿線。高田馬場までは歩きます」
「それじゃあ、途中まで一緒に」
新歓コンパも終わる時期だと思うけれど、夜の西早稲田駅付近は学生でごった返していた。
狭い歩道を埋め尽くす学生の群れの中を、坂井はするするとすり抜けていく。周りからひとつ飛び抜けた長身は見つけやすい。振り返りもしない坂井にようやく追いついたのは、穴八幡の交差点の前だった。空にはタクワンみたいな半月が浮かんでいた。

(つづく)

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