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論理の選択

 一般的な感覚がどうか分からないが、私は草食動物より肉食動物の方が、圧倒的に不利だと思っている。第一の直感に反するように思えるのは、肉食動物の方が身体的に恵まれており、他の生物の血肉を喰らう獰猛さを備えているその一方で、草食動物の側は愚鈍でおっとりしていて、常に受け身のような感覚を抱くからかもしれない。

 さて、少しだけ話がズレるが、私は自分のことを精神的にも肉体的にも強者の側に立つとはまったく思えない。私は明らかに弱者の側だ。だが私はどちらかといえば、強者の論理を常に崇拝している。それは私が弱いからである。

 サバンナに生息する動物たちを追ったようなドキュメンタリー映像をご覧になったことがあるだろうか。まあそれなりに厳しい生活を奴らは送っているわけで、食い物はねえわ飲み物はねえわ、天敵がそこら中にウヨウヨしてるわで散々である。私にしてみれば、この構図は私たちと絵面が違うだけでやってることは人間社会とそう変わりないんじゃないかなと思うわけだが、それは一旦置いておこう。

 そういったドキュメンタリーでひとつの見せ場になるのは、草食動物が肉食動物に追い狙われるシーンである。その結果捕まったり捕まらなかったりするわけだけど、前置きしたように、一般的な感覚で言ったら、草食動物が逃げ切れればほっとするし、捕まれば目を背けたくなるのではないか。少なくとも、私がそういうドキュメンタリー映像を観ている時に(よく観ているので)、横に友人やらがいると、そういう反応が大半だ。

 しかし私からしてみれば、肉食動物の方がよっぽど惨めである。食い物が他の生命しかないというのは、これはとんでもない不利だ。最初に恵まれた身体を有していることに触れたが、これももちろん、そういう肉体を有するということは、それを維持するのにより多くのエネルギーが必要とするということであって、飢えの苦しみは草を食ってりゃいい奴らとは次元が違うはずだ。「獰猛さ」とは、言ってみれば余裕のなさである。逆に言えば、穏やかさというのは、余裕であろうか。

 私は弱い。私は弱いが、弱いなら弱いなりに弱いところで立ち止まっていればいい。言うなれば、草と水があるならそれだけ食っていればいいわけだ。生きるだけならそれでいい。だが、別に生きていたいわけでもないのに、なぜ安寧だけを求めなければならないのだろう。

 肉食動物は、肉体に恵まれ、肉を食うからと言って、別に強いわけじゃなかろう。それがなきゃ飯に有りつけないだけだ。それは最低限必要だから持っているというだけである。そういうことを強さとは言わない。受動して手に入れたものを、生まれた時から持っているものを誇るのは卑しい。ただ最大限利用する道具として用いるだけでいい。

 喩えを引き継ぐと、私は草食動物の身体で生まれたが、肉食動物の飢えを抱いている。草食動物の精神で生まれたが、欲するものは肉食動物のものだ。私が強者の論理を採用して、ただ無念に生きるのを嫌がるのは、そもそも生まれることも生き長らえることも望んじゃいないからだ。それでも私が必死に生きるのは、それがむしろ生へのアンチテーゼであり、死への超特急だからである。

 分かるか?

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