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もっと世の中への不満とか、常々抱いている不安とか、これまでのように書けたらいいのだが、私のそれはいまやミクロで面白味がない。仕事に行きたくないだとか、あの上司がダルいとか、たとえばそういうのである。いやに実務的な、そう、生活における実務的な事ばかりしかいまの私の周りにはない。悩みといえば金と時間と睡眠と仕事。睡眠ももはや、ただ寝る時間が取れないというそれだけの騒ぎである。寝たいのに寝れなくて開いた眼で青に明るくなっていく世界を見るアレではない。愚痴もしょうもない、もう綺麗なことも言えまい。美しいことをなにひとつ体験していないから。仕事にしかやることを見い出せずいる人間を「新幹線の人たち」と呼んで馬鹿にしてきたが、そういう集団の中にいると、私も表面上はそれである。いまや仕事しかやることがない。仕事が評価されたり仕事が貶されたりしても、ただそれを受けて「平凡か否か」でしかなく、波風立たず長いものに巻かれている。せめて、仕事を評価されたら驚くほど悦べる人間だったらね。仕事を貶されたら、なにくそと奮闘できる人種だったらね。そうでなければ、仕事の傍らまだ文章でも書いていたら私はまだ私らしくあっただろうが、いまではそれもままならないとは。寝ても覚めても変わらん毎日だ。これがあと40年以上続くと思うと笑える。結婚したいとか、子供が欲しいとか、それで四人家族で犬を飼って……とかいう、そういう欲望でもあれば生活の維持にも精が出たかもしれんが、そういうのもないし、それどころか、私の生活といったらまだまだ苦学生の延長みたいなものだ。苦学生のときのほうが、なんであればまだ楽しかった気もするね。それを、乗り越えた先が、なんだ。貧乏の社会人にどんな称号があるんだ。いずれは貧乏でもなくなっていくだろう。そしたら私は「一般人」である。「普通の会社員」である。普通で一般的ね。喉から手が出るほど欲しいよ、それが。貧乏の最中にはそれが欲しくてたまらない。でもなにかしらの形で屑でありたい。ゴミでいたい。嫌われていたい。同情されたい。

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