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ほんとうにずっと、生きる意味を考えてきた

私は、私にとって生きることはごく自然にしんどいことだな、とずっと思っている。

正確に言えば小3くらいから始まっていたように記憶している。

(生きるって何?)

人間って、感情って、生きる意味ってなんだ?そもそも「意味」とか「感情」とかっていう概念がなんだ?
てか、概念ってなんだ…?概念の概念………?

当たり前のように周りで起きては消えていくことたちを眺めながら、ほんとにこれ全部何なんだ、何に帰着していくんだ、何か生きることの絶対的な意味がこの世界にはあるのか、じゃなきゃなんでみんな心が揺らがずに生きていけるんだ、だって考えれば考えるほど足元が自分の立ってる場所がグラグラゆらがされる感覚に陥って、精神が落ち着かないったらありゃしないじゃんか、と本気で考えていた。

私は、人といない時はずっと考えていたと思う。
沢山楽しいこともしてきたし遊んできたし学んできたけど、結局1人になった時には、ずっとずっとこういうことを考えてここまでやってきたんだと思う。

幼少期、分からないことは、調べれば学べば経験すればどんなことでも答えが見つかるんだと思っていた。
学校の勉強にはいつだって答えがあったし、考えれば正解が導けて、答えを見つける為に考えることがあるんだと思っていた。

考えること=答えが見つかること

繋がっているんだと私は思っていた。

小学生の頃の自分がどうしたって納得のいく答えは愚か、ヒントすら掴めなかった疑問が「生きる意味が何なのか」ということだった。

割と本気で幼少期の私はこの疑問に頭を悩まされていて、何でも知ってると思ってた親に聞いても腑に落ちる答えが返って来ず、図書館で機械での本検索と棚巡りを一生懸命して見つけた『生きる意味について考える〜やさしい哲学〜』みたいな「絶対答えが書いてあるな!」と思った本にも自分的にクリティカルな答えがなくて、終いには『生きる意味を探すことが生きる意味です』と書かれていたことに「いや、そうじゃなくて!!」とキレていた。

幼少期の自分語りが長くなった。


諦めや答えがないことを成長するにつれて覚えていきながらも、私はこの疑問を完全に捨て去ることはできなかった。

純粋な疑問だったこの問いがいつしか辛いこととセットになり、余裕がある時は楽しいことともセットになった。

多分視野を増やせばヒントが見つかるだろうと、自分の手の届く範囲で本を読んだり勉強したりしてみたけれど、正直あまり状況は変わらなかった。

もっと大人になったら、こういうことを考えている時間こそ一番何も生み出さなくて、生産性が無くて、本当に意味が必要が無いのかもと思うようになった。

そんな風に思い始めてから、それでもちらつくこの問いに何とか折り合いをつけて生活していくようになってから、どれくらい経ったか分からない。





私は、私にとって生きることはごく自然にしんどいことだな、と今も思っている。

ここ数年、私はそのしんどさを無くすことを目標に生きていた。

でも、それはやっぱり無理みたいだ。

なぜなら、
私が関わりを持った人がいつか死ぬ
といった絶対に覆らない悲しい事実たちは確実に存在するから。


あらゆる手段を使って、不安なことや自分にストレスをかけてくることを消し去ろうとしようとしたって、消す方法がない苦しい事実たちがある。(世界が劇的にひっくり返る場合を除く)

だから、完全に息がしやすくなることって(少なくとも私は)一生無くて、負の事実を抱えて生きていくことって不可避なんだよな。

なら、私たちにはその事実を引き受けるか、現実を生きないというかなり無茶な方法でその現実を無視するかしか選択肢がない。

そう感じない人は、こんなことを考えずに生きていける人、もしくはちょいちょい思うけどそんな深くは考えずに生きていける人で、私はこの割合がかなり多いんじゃないかと体感的に思っていたりもする。



こーんな長々と書いてしまったけれど、要は『私の前に立ちはだかるしんどいことを全て倒して心穏やかに生きていくということは不可能だ』ということを、やっと頭ではなく私の全部で分かったということ。腑に落ちたということだ。

なーにを当たり前のことを言っているんだと思われるかもしれないが、まぁそういうことなのだ。

これはあくまでも「私が私として生きていく事例」の話をしているし、他人の生き方が誰かの生き方の参考材料になるなんてことは、本来では有り得ないのだ。
同じ思考と身体を持った生命体なんて存在しないから。そもそも他人同士は相容れないのだ。



私は結構本気で私の人生に現れる辛いことの全てをどうにかして「無くすこと」で幸せになろうとしていた。
対処するなりそれに直面する機会ごと無くすなり何なりしてだ。
私が強くなること賢くなること偉くなること正しいことを考え続け実行すること、とにかく努力すれば道は拓けると思っていた。
その為の力が足りて無さすぎるから自分はダメなんだと思っていた。

それもある。でも、それが全てではなかった。





私にとって生きることはしんどいことだ。
感情が人一倍揺らぎやすいのは、私にとってはしんどいことだ。
しんどいことに対処することで幸せになることを目指していた。
それは無理だと気が付いた。
それは傲慢な理想だという事実が腑に落ちた。

この世に死はあって、悪はあるけれど、
正解はなくて、善は正直分からない。
負のものは事実でも、正のものは人間が作り出した虚構のような気もする。

生きる意味は正直ないと思う。
普遍的な意味なんてなくて良くて、
ないから成り立っているんだと思う。

私は私のために私を犠牲にしながら労りながら生きていくしかないんだと思う。

辛いことを全て避けることはできなくて、皮肉なことに辛いことがなくなったなら楽しいことも感じられなくなって、辛いことと楽しいことは表裏一体なのかもしれない。

生きていくのは辛くて、でも死ぬと戻って来れないらしい。それはだいぶネックだから、天秤にかけられるうちは生きていればいい。

ただ生きるしかない時があるらしい。
ただ生きているだけでもいいらしい。


意味なんてなくて事実だけがあるという事実に
全てを預ける日があっても、いいんだと私は思う。



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