スルロンと - エッセイシリーズ『名前をつけてやる』
人は空想のできる生き物だ。
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幼稚園児なら幼稚園児なりの、アインシュタインはアインシュタインなりの空想ができて、それが時に役に立つ。
動物は(諸説あるが)、多くはその場その場の反応で生きているはずだ。
人間はその場に無い問題をも、空想で作り上げ、それを解くことができる。
しかしそういう時、落とし穴が待っていることもある。
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スルロンと:脳内で作り上げた問題・仮定が、現実では当然考慮すべき条件を欠いているがゆえに、妙にスムーズに解けてしまうさま。また、その時の音。
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経験上多いのが、他人の反応を考慮に入れなければならない考察のケース。
例えばAが『人殺しはいけない』と主張した、としよう。
脳内の他人Bが『どうしてだ?』と反論する。
A『人を殺したら、いずれ自分も殺される』
他人B『それもそうだな』
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ちょっと待った。
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今他人Bは、さらに反論してくる可能性もあったのではないか。
例えば『人を殺せるほど強いものは、殺されないことも可能』とか。
全力で脳内の自分を対決させなかったために、今、仮説はスルロンと通ってしまった。
これから先、Aは『人殺しはいけないのだ、自分も殺されるから』と安易な回答を信じてしまった。
これが原因で足元をすくわれる可能性もある。
(特に、noteでエッセイシリーズなどを書く場合において)
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スルロンは他人への想像力の欠如を示している。上の例の場合、他人Bのことをもっと想像できていたら、異なる反論も浮かんできて、さらに議論が深まったはずである。
つまり、『人を殺してもいいか』という質問のみの問題ではないのだ。想像力の欠如、それは、人間が人間としてある根拠に限りなく近い。冒頭で書いたように、人間は空想のできる動物だからである。
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ネットでは『藁人形論法』という言葉が見られる。自分の議論のサンドバッグになる、都合のいい他人を想定して議論をしてしまうことだ。
これはいけない。理由は満足の行く解答にならないこと、他人への想像力の欠如を示してしまうことである。
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自分も気をつけたいと思ったら、スルロンに注意すればいい。
スルロンと通ってしまう議論は、何かがおかしい。そう心に刻んでおくべきだ。
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