スルロンと - エッセイシリーズ『名前をつけてやる』

人は空想のできる生き物だ。

-------------

幼稚園児なら幼稚園児なりの、アインシュタインはアインシュタインなりの空想ができて、それが時に役に立つ。

動物は(諸説あるが)、多くはその場その場の反応で生きているはずだ。

人間はその場に無い問題をも、空想で作り上げ、それを解くことができる。

しかしそういう時、落とし穴が待っていることもある。

-------------

スルロンと:脳内で作り上げた問題・仮定が、現実では当然考慮すべき条件を欠いているがゆえに、妙にスムーズに解けてしまうさま。また、その時の音。

-------------

経験上多いのが、他人の反応を考慮に入れなければならない考察のケース。

例えばAが『人殺しはいけない』と主張した、としよう。

脳内の他人Bが『どうしてだ?』と反論する。

A『人を殺したら、いずれ自分も殺される』

他人B『それもそうだな』

-------------

ちょっと待った。

-------------

今他人Bは、さらに反論してくる可能性もあったのではないか。

例えば『人を殺せるほど強いものは、殺されないことも可能』とか。

全力で脳内の自分を対決させなかったために、今、仮説はスルロンと通ってしまった。

これから先、Aは『人殺しはいけないのだ、自分も殺されるから』と安易な回答を信じてしまった。

これが原因で足元をすくわれる可能性もある。

(特に、noteでエッセイシリーズなどを書く場合において)

-------------

スルロンは他人への想像力の欠如を示している。上の例の場合、他人Bのことをもっと想像できていたら、異なる反論も浮かんできて、さらに議論が深まったはずである。

つまり、『人を殺してもいいか』という質問のみの問題ではないのだ。想像力の欠如、それは、人間が人間としてある根拠に限りなく近い。冒頭で書いたように、人間は空想のできる動物だからである。

-------------

ネットでは『藁人形論法』という言葉が見られる。自分の議論のサンドバッグになる、都合のいい他人を想定して議論をしてしまうことだ。

これはいけない。理由は満足の行く解答にならないこと、他人への想像力の欠如を示してしまうことである。

-------------

自分も気をつけたいと思ったら、スルロンに注意すればいい。

スルロンと通ってしまう議論は、何かがおかしい。そう心に刻んでおくべきだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?