「共感覚」は特殊だけど、「共感覚者」は特殊じゃない

私は、文章や絵画、写真、モノ、人から音を感じている。

1980年代〜始められた学術研究で整理された「共感覚」の知見によれば、

✔️音視共感覚(Hearing with eyes)

✔️高次共感覚者(synesthete、概念や意味といった高次な段階で処理する)

✔️連想型(associaters、「頭の中」で音を感じる、「mind'eye」と同じく「mind's ear」で聞いている)

✔️「音が聞こえる」共感覚は、共感覚全体の割合で言えば、1割未満の共感覚に位置する。ある研究によれば、発現率は、0.09%〜3.07%。10万人に1人or2万5千人に1人or2000人に1人or23人に1人、とされる共感覚者1000人に1人の割合だから、「稀」とされる。

に分類されるらしい。

ただし、いま確認できている共感覚の9割は「色が見える」タイプと言われているが、これは、被験者の数の多さや、実験手法の確立、実験計画の実行のしやすさ、客観的事実をデータとして収集しやすいこと、ある程度の定義を持って主観的事実である共感を「共感覚者」と分類していること、など、なにを基準に「共感覚者」と呼ぶか、という学術の世界特有の範囲の狭さが背景にある。

「極めて稀」と分類される、音視共感覚や他のタイプの共感覚(たとえば、痛みに味を感じる、パーソナリティに匂いを感じる、など)も、実際には、共感覚者が自覚してないだけ、学術研究の場まで報告があがってないだけ、報告を受けても、数が少ないが故に個別の事例研究に留まっているだけ、の可能性はかなり高いと思っている。

もし、共感覚者を10万人に1人と見積もる学説で計算すれば、10万人に1人の共感覚者の1000人に1人、だから、1億人に1人、の計算になる(合ってるのか不安)。私は、日本に唯一の音視共感覚者かもしれないし、世界人口77億の内77人の1人かもしれない。でも、そんなはずはないと思う。実際、海外のfacebook共感覚者グループ内で、パーソナリティに音を聞く人、と今朝すでに出会ったばかりだ😊

一般的に、人の知覚は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触感、の五感に分けて知覚されると考えられている(無音の文字に音はしないし、視覚的な色に味は感じない)から、五感を越境する形での知覚、「共感覚」は、特殊な現象に見える。

共感覚は、先天的な脳の特徴らしい。

科学的には、脳の神経の交錯、とか、神経細胞間で化学物質の抑制作用が起きない結果生じる、と説明されている。

共感覚は、報告されている人数の少なさや、客観的データに重きを置く学術研究の在り方、本人の自覚のなさや、カミングアウトしにくい社会的風潮、共感覚者同士でも全く同じ共感覚は存在しない(同じ色字共感覚者の間でも、1が赤と言う人もいれば、1は緑、と言う人もいる)から、相当捉えにくい現象であることも相まって、「特殊」と位置づけられる。

確かにそうなんだろう。

「無音の本に音がするってどゆこと?」と不思議に思うだろう。

でも、文字や絵画、人から音を聞いて、物事を記憶したり判断したりしている、共感覚者の私からすると、逆に疑問なのだ。

「本から音がしないなら、どうやって読む本決めてるの?」

「こんなにモノが散らかってうるさいのに、片付けずにいればいいってどゆこと?」

「あの人は音が大きすぎて怖いから近寄りたくない。どうしてみんなあの音の大きさに耐えられるの?」

「こんな悲しい音がする人初めて、何話したかよく覚えてないけど、あの悲しい音を聴くと私まで悲しくてたまらない、辛いし、涙が止まらなくなる」

共感覚者側から見れば、非共感覚者側の世界のほうが「特殊」で、真剣に「よくわからない」のだ。

「共感覚」という特徴は、「共感覚者」と「非共感覚者」を分けるひとつの指標となる構造ができていると感じる。(共感覚者、非共感覚者、という単語の持つ響きがかなり苦手だ。だけど、今のところこの単語を使って文章をまとめるしかない。でも本当は、私は自分の書く文章に、あんまり使いたくない。)

「本から音が聞こえます」「色に味がします」「人に色が見えます」

「単に、私」で在ろうとする、人間として当然の権利を行使する、ありのままの自分で幸せになろうとする、ただそれだけだ。

そこに本来、「生きづらさ」は存在し得ない。

「共感覚」は、人数の少なさや知識の少なさ、認知度の低さなどから、「特殊」にうつるだろう。

でも、「共感覚」を持つ人、「共感覚者」は、全く「普通」(この単語も本当は大嫌い)で、「特殊ではない」ともっと発信していきたい。いわゆる「共感覚者」と「非共感覚者」の間にひっそりと横たわる溝のようなものを埋める、一粒の砂粒になりたいのだ。

「あなた(非共感覚者)とわたし(共感覚者)は、本当に、異なりますか?

異質性を感じさせる指標は、作られた共同幻想ではないですか?

お互いに、それぞれ個々の「特徴」があるだけで、本当は、「単に、人間」という点で「同じ」ではありませんか?」 

と、社会に問いたいのだ。(無知の知、と、知識は、共同幻想を晴らすひとつの手段となるはずだ)

それは、

「「単に、あなた」は、どんな人間ですか?」

という率直な興味にもつながっている。

共感覚、性被害、DID、、私は様々な「マイノリティ」を内包する存在だけど、それが私の全てではないし、私以外の他者もまた、「マイノリティ」な面を当然、持っていることも知っているからだ。

人はみんな、なんらかの「マイノリティ」を内包した存在だし、ある種「孤独」で、「特殊」で、だからこそ、「特別」な「単に、私」のひとりの人間だ。

それが、真実だ。

だから私は、「単に、私」のまま、「単に、あなた」と、関わりたい、と思っている。

「共感覚」を自分の中でどう意味づけるか、位置づけるか、は共感覚者の間で千差万別だから、私の発信は、すべての「共感覚者」を代表するものではない。

単なる、私の、考えだ。(ただし、私にも、自分の率直な考えを発言する権利がある。それが全ての人からyesと受け入れられなくても、私は私のままで立っていたいからだ)

同時に、共感覚的知覚の、美しさにも触れていきたい。

「なにに、どう」は、共感覚者によって異なるけれど、情動と結びつきの強い共感覚は、共感覚者に強烈な感情を与える。

「なんて綺麗な色の人!」「この絵画から聴こえる音に聞き惚れていたい」「フルーティな香りの人が好き」「この絵画から感じる色に触れたとき、神、を感じる」

「なにに、どう」は、人によって異なるが、共感覚的知覚が、共感覚者に「多幸感」を与えているのはひとつの共通事項のようだ。

その体験は言語化するのが難しいけれど、それがいかに美しいかを伝えたくて、絵画を描いたり、音楽を作ったり、詩を書いたりする人もいる。

その体験の瞬間を全く同じように体験はできないのは知ってもいるけれど、やっぱりどうしても表現せずにはいられなくて、躍起になって、夢中になって、その美しさを「芸術」の中で表現しようとしている。私も、そういう方法を見つけたい。






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