院生時代に培われた「知」への態度

大学院には、研究者志望で入院した。

[大学院の場合、入学ではなく入院と言う場合がある。タコ部屋のように院生が詰め込まれた院生室には、「気づいたらなんか周囲から浮く…大学院に進学するほかなかった…」と、世間一般に馴染めない自分自身に半分諦めをつけたような、所謂「変わり者」がぎゅうぎゅう詰めになっていた。「私達はいつ『退院』できるんでしょうか」と、授業の合間にクスクスと笑い合っていたことを思い出す]

博士課程後期まで在籍した大学院は、研究者養成を目指した教育プログラム(海外研修、院生主体の共同研究プロジェクトを含んだ素晴らしい内容だった)を準備して下さっていて、先生方も、修士(博士課程前期)だろうが博士(博士課程後期)だろうが、将来的に「知の枠組みを広げる」ことができる院生教育を、と力を注いでいた。

私の指導教官は、ハーバード大学他、アイビーリーグで学を修め、かつ教鞭をとっていた教授で、私自身は、どちらかといえば、アメリカ型の大学院教育に触れたと言えるだろう。

修士1年前期の授業で、旧約聖書の授業をとっていた私は、自由課題でレポートを提出する必要があった。

比較宗教学を専門とする指導教官に、私は、仏教とキリスト教では、「愛」の捉え方がどのように同じでどのように異なるのか、を質問しに行った。

そのとき先生は、アガペーやエロスなど、哲学の枠組みでの「愛」の捉え方に言及した上で、本棚からいくつかの文献を手にとりながら、「あなたが僕に、宗教なりなんなり、何らかしら特定の知識を注入してほしい、と期待しているなら、それはできない」と言った。

「問いを持ったら、雛鳥が口を開けて虫を与えられるのを待つように、その答えを誰かが与えてくれる、と期待してはいけない」

「知に対して貪欲に、すぐに既存の答えに飛びつかず、自分で、その答えを探しなさい。あなたが枠組みに囚われず、自由にstruggleする環境を確保するのが、僕の仕事」と言い、仏教系の文献を手渡した。

先生との関係性について、私はまだ未消化だけど、「知」に取り組む態度について育んでもらったと思う。

これから、精神分析の学びの三本柱(個人分析、教育分析、座学)のうち、「座学」の部分を「独学」でどれだけ豊かにして自分自身を教育していけるか、を考えたとき、私自身のスタート地点は、修士1年前期の、つまり、2007年6月か7月の、あの日のあの対話に還るのだと思う。

レポートやプレゼンに厳しい先生で、何度も泣きそうになったけど(笑)、いまの私の知に対する基本的な姿勢や態度の礎となっている。

学んだことをメモしておく。

Bring me the result.
No excuse.
Do have your own theory.
Don't expect audience to be able to wait for your "late" explaination.(That's boring & annoying.)

Make your point clear.
Have responsibilty to make others understood what you want to say.

結果(論文)を持ってきてください。
言い訳しないこと。
自分の理論を持ってください。
あなたの「遅い」説明を聴衆が待てると期待しないでください。(それは退屈だし迷惑ですらあります)

あなたの主張を明確にしてください。
自分の言いたいことを他の人に理解させることに責任を持ちなさい。







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