【怪談】落としたものは何?

始めに断っておきたいのは、この話は特段怖い話ではないということです。誰も死にませんし、行方不明になることもありません。また、オカルトな要素も人間の悪意も出てきません。強いて言うのであれば烏滸がましいとは思いつつも、注意喚起をさせて頂きたいのです。

当時、私は就職活動中でした。午前中に面接を一件済ませて、適当な定食屋で昼食をとり、これから大学に戻ってまたうんざりするような大量のエントリーシートと向き合わねばならないのか、と憂鬱な気分で住宅街の路地を歩いておりました。

すると前方の自販機の近くで、何やら探し物をしているような挙動の男性の姿が目に入りました。

普段なら特に気に止めることもなく、見て見ぬふりをして通り抜けていたと思います。私はあまり明るい性格ではありませんし、特別殊勝な人間でもありません。ありふれた、普通の人間です。皆さんもそうですよね?

しかし、男性があまりにも深刻そうな表情だったので魔が差したのだと思います。つい声をかけてしまいました。

「あの…何かお探しですか?」

「あ…はい…。落とし物をしてしまって、何処に行ったのかわからないんです。た、助けて下さい…お願いします」

「はあ…」

スーツ姿の男性はよく見ると所々衣服が汚れており、もうかなり長いこと探しまわったようでした。

「えっと…何を探してるんですか?このあたりで失くしたんですか?」

「精神」

「え?」

「私の精神がこのあたりの裏側に、落っこちて行ったのを見たんです」

あまりに予想外な単語が返ってきた為、数瞬ばかり聞こえた音と正しい漢字が一致しませんでした。

「ええと…」

「すみません…何言ってるのか意味わからないですよね」

「ええ…まあ…はい」
返答をしつつも、私は何だか危なそうな人に声をかけてしまった自分の行いを早くも後悔し始めていました。

精神を落とした?精神とはそんなコンタクトレンズみたいに、物理的に落としてしまうようなものなのでしょうか?もっと心だとかそういう形の無い、概念的なもののはずです。もしかして、何らかの暗喩でしょうか?だとしても、初対面の人間に助けを求める為に比喩表現を用いる意味がわかりません。何とも言えない顔をして固まっていたであろう私に、男性は真剣な表情で続けます。

「多分…この世には誰からも認識されない空間と時間があって、そこには折り畳まれている次元があるんです。一度目の前にある何も無い空間に裏っ側があることがわかると、ふとした弾みで身体から精神が、私の物理的な形状を持たない要素が私の身体からこぼれ落ちてしまったんです。」

正直このあたりの記憶は曖昧です。聞き取れた単語を元に、こんな内容だったかなと再構成したものなのでもしかしたら全然違うことを話していたかもしれません。

ともかく私は話の途中で、「ああ、この人は心を病んでしまった人なんだな」と内容を理解しようとするのを止めました。

「あの…すみません、私予定があるので…ごめんなさい」

足早にその場を去ろうとする私をその男性は意外にもすんなり解放してくれました。ただ、その時の深い諦念のようなものを感じさせる男性の表情が、今でも妙に記憶に残っています。

ただ、少し引っ掛かったのが、その男性には一見してその…おかしくなってしまった人特有の雰囲気みたいなものは全く感じられませんでした。話しぶりも、内容さえ気にしなければとても落ち着いていて、ある種の誠実さえ感じさせるほどでした。

その、話の内容と男性の様子のチグハグさがなんだか一層不気味で、どうしようもなく不安な気持ちになるので、私はこの出来事を早々に忘れるように努めました。

それから10日ほど過ぎたある日、その時の男性の言っていた事が比喩表現でも何でもなかったことを知りました。私も落としてしまったのです。失くしてしまいました。私の精神を。

何の変哲も無い、コンクリートで舗装された路地を歩いていたのに。突然ジェットコースターで落下する時のような、内臓が浮き上がるような不安感に襲われました。こんなにも平坦で、しっかりとしたアスファルトの地面なのに。事実と矛盾する、断崖絶壁から足を踏み外してしまったような感覚だけが、強烈なリアリティーを持って私に襲いかかったのです。しかも、何の予兆もなしに。

最初は貧血とか立ちくらみのようなものだと思いました。しかしそれは違うことがすぐにわかりました。欠けているんです。私が。身体には何処にも異常はありません。でも確かに…明確に私という存在の一部が…失くなってしまったような気がするんです。

痛みがあるとか、身体の感覚が無いとかそういう事でもなく、魂だとかオーラだとかそういうスピリチュアルな話でも無いのです。ただ「無い」ことが自身の存在の一部として明確に存在している…そう、まさに精神を落としてしまった、失くしてしまった。そんな感じでした。そしてようやく、自分があの探し物をしていた男性と同じ状態になってしまった事を理解しました。

ここまで話を聞いてくださった皆さんには、この私が単に精神を病んだようにしか見えないと思います。きっとそう、就職活動のストレスか何かで私の精神に限界が来たのだと。実際、そうだったらどんなに良かったでしょう。

実際に病に苦しんでいる方からしたら失礼な考えですが、この私に起きた現象に何らかの精神病の名前でもつけば、いくらか安心出来たのだと思います。それを期待して何度も心療内科を受診しましたが、病院毎に異なる診断結果を言い渡され、色んな薬を処方されました。でも効果はありませんでした。無論、脳の異常である可能性も考慮して何度も病院で精密検査を受けました。無意味でした。

医学的に見て、私は健康そのものでした。
あれから6年以上経ちますが、当時の就職活動で運良く入れた会社に今でも勤務していますし、同僚との交友関係も良好です。この奇妙な体験の事を黙っていれば、傍目からは何処にでもいる、あなた達と何ら変わらない普通の人間なんです。ただ、落とし物をしてしまっただけ。

何度も色んな人に相談してみました。しかし決まって病院に行くように勧められるか、冗談や創作怪談の類いだと受け取られるのが関の山でした。一度だけお祓いに行くように勧められましたが、高名な霊媒師の方にお願いしても特に異常は認められないらしく、一応除霊のようなこともやって頂きましたが気休めにもなりませんでした。

人はわからない事に直面すると、自分の持っている知識に置き換えて理解しようとします。人間は説明が必要な生き物なのです。

実は人間には身体と精神を繋げとめておくような機能が元々備わっており、それが何かの拍子で壊れてしまったのだとか、本当は思ったより多くの人間が私と同じような体験をしていて、狂っていると思われたくないので黙っているだけなのだとか、色んな可能性を考えました。しかしどれだけ調べようとも、私のこの体験に尤もらしい説明を与えてくれるものはありませんでした。

今の私を支えてくれている事実は、この体験が私だけではないという事です。あの男性にもおそらく同じ事が起こった。少なくとも私だけがこんな目に合っているのではない。うっかり自分を手離してしまっただけ。最初に注意喚起などと偉そうな事を言いましたが、話してしまえばこれは単なる悲鳴のようなものなのだと思います。私がこれからも普通に生きて普通に死んでいく中で上げている、誰にも聞こえない悲鳴です。

いえ、もしかしたら普通に生きていくことさえ難しいのかもしれません。実は最近増えているんです。平らな場所にいるはずなのに、上下左右前後どれでもない方向に向かって、私の意識だけが身体から振り落とされてしまうような感覚が。その感覚に襲われる度に、私は必死になって身体から離れないように留まろうとします。もし私が私を落としてしまったら、二度と元には戻れない気がするのです。

聞いていただきありがとうございました。



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