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歳を重ねる、言葉を重ねる、


コンセントのあるスタバの席で久しぶりにかいている。
すると突然、頭の後ろを誰かからデコピンされた。

あ、ただ、ヘアゴムが切れただけだった。




言葉を紡ぐこの行為を。
私は死ぬまで続けていたい。


死ぬまで、なんて余計なプレッシャーを自分自身でかけにいっているのはなんだか笑えちゃうけれど。
それくらいわたしは


『言葉を信じていない』
のだと思う。

きっと、これからも。



『言葉を信じる』なんて容易なことかもしれない。
『言葉をかく』なんて単純なことかもしれない。

だけど、
だからこそ、

その"言葉"というものを、重たく捉えていたいのだ。


”哀しさ”を抱えていたい私の、ちょっとめんどくさい表現の一部なのかもしれない。




最近(去年の後半)は、身近に触れる言葉たちが気持ち悪くて仕方なかった。
何が悪いとか嫌いとかそういった類のものではなくて、ただただ私が気持ちよく受け取れなくなってしまった。
それの何がしんどいかっていうと、言葉の先には必ず人がいることに気付いてしまったから。


私自身が勝手に軽薄な言葉だなと感じてしまった先には人がいる。
もちろん、心を動かしてもらった言葉の先にも人がいる。


わたしは誰も否定したくない。
ただただ否定されたくないから、その向こう側に自ら飛び込みたくない。だけ。
それが深く濃く纏わりついてるのだと思う。





様々な場所でいろんな生き方や思考と共に生活をすると、
良くも悪くも定めが難しくなる。自分というものが固定されにくい。

と同時に、いろんなものに触れて削ったり足されたりしながら、自分というものを形成したり見つけたりすることが大事なんだと感じる。


”自分はどこに存在しているのか”という立ち位置たるものを考え続ける。
そして、その時その時の正義は変わっていくのだ。

とても面白い。
そして、嫌になっちゃうときはちゃんとある。


だけど、そんな”生きている実感”を生きながら持ち合わせているのは、かなり幸福なのかもしれない。

のだと、思いたい、。





23歳のわたしは、言葉に対して褒められた。愛された。それが実感としてもらえたよ。
わたしという人間から産まれる言葉たちを、大切に掬ってくれる人がいること。
言葉を介しているのに言葉にならないほどの温度で心を動かしてくれた人がいること。
さらには、わたしの知らない誰かまで伝わる場をもらえたこと。(公表されたらお伝えするね。)


それだけで生きていて良かったって思えるんだ。いつもありがとう。




昔みたいにね、この世界に絶望しているわたしはいなくなってるの。

でもね、最近ね、怖いものが増えてきてるんだ。


それってさ、
大切なものが増えてるとか、明確になってきてるとかと同等のことなのかも!
なーんてね、感じてるんだよ。



たーくさんの場所を訪れて
たーくさんの人と出逢って気付いたことは

みんな方法が違うだけ


自分の守り方も
自分の救い方も
自分の闘い方も

誰かを大切にする方法も
誰かを愛する方法も
誰かを幸せにする方法も


自分への向け方がこうも違うだけで
誰かに対してうざったくなっちゃったり反発心が生まれたりする。

誰かへの想いはちゃんと存在しているのに、方法が違うだけで認識ができない。
こんなにも幸せを持て余してるんだよね、みんな、多分。


色んな場面を見るたびに、
『あー、幸せが渋滞してる』

わたしは静かに心でこう言うんだ。口には出さないようにね。へへ



目と目を合わせて、『ありがとう』と。
肌と肌で触れて、『たいせつだよ』と。
伝えていたいんだ。

ーー自分自身で感じるものを信じていく。

「好き」という言葉は信じない。
"好き"と感じた自分を信じる。こんな感じね。




言葉には”想い”が込められていることが絶対条件だと思い込んでいた。

「ありがとう」には『ありがとう』の想いがあると思っていたし、
「ごめんなさい」には『ごめんなさい』の想いがあると思っていた。

簡単に言えば、
社交辞令と呼ばれるものが存在しない世界を勝手に作って
その中で私は能天気に過ごしていたらしい。

そうじゃない世界に生きてることに気付いた23歳でした。



また、再びあなたの元へ。
新しい、あなたの元へ。

わたげのようにふうふうと飛んでいくからね。

一緒に幸せの種も植えにいこうか。


歳を重ねて、言葉を重ねて。



もも



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